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鼻をつくような臭い。 腥風(セイフウ)が吹く。 成都の火はしばらく消えそうになかった。 時代に従い、あるいは逆らい、戦い抜いた男達がいた。 己の信念のために生き恥をさらす者がいた。 一方で自ら命を絶つ者もいた。 誰もがあがいた。 そして、死んだ。 紛れもなく激動の時代だった。 それも終わりを迎える。 成都の火を見ていると、そんな気がした。 時間が経てば人は忘れていく。 戦の様相も、悪政も、なにもかも。 愛した人達は死んでしまった。 どうやっても取り戻すことはできないとわかっている。 だから、せめて、この目が見てきたものだけは忘れないようにしようと思った。 英雄達の生き様を忘れたくなんかない。 光。 夕焼けの朱(アカ)と、大地の赤。 成都の喧騒とは対照的な静寂に身を委ねている。 自分は今、時代の終わりと始まりの狭間にいる。 切ない、と言うべきなのか。 それすらもよくわからない。 ただ愛する者達をすべて失ったという喪失感だけは、ひしひしと感じていた。 益州(エキシュウ)は厚い雲に覆われていることが多いのに、その日は悲しいくらいに澄み渡っていた。 靡く髪を片手で押さえ、彼女は何度もまたたく。 そうすると、隠れていた感情が湧いてきた。 姜維も、鍾会も、父も兄も、皆いなくなってしまったのか。 新しい時代を迎えるのに、たったひとりなのか。 鼻の奥がつんとなって、喉の奥がきゅっと絞られた。 高鳴る鼓動と、胎動。 手を合わせ、深く頭を下げた。 風が優しく髪を撫でる。 「さようなら」 誰にあてたものでもない、別れの言葉。 すべてのものにあてた、最後の言葉。 風はどこまでも吹いている。 彼の匂いが残っている浅葱色の布が、ほんの少しだけ、濡れていた。
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