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赤子がぐずり始めていた。
それをあやすようにして、菻(リン)は赤子の額の辺りに口付けした。
それから少年の方を見て、壊れそうな笑みを浮かべた。
「そこに、勝者はいなかったのよ。誰も、誰も救われなかった」
その言葉を洩らす時、菻は今まで見たことのなかったような顔になる。
ぎゅっと胸が締め付けられるような笑み。
鍾会(ショウカイ)が討たれ、姜維(キョウイ)も戦死した後、師簒(シサン)は己の保身のためにトウ艾(-ガイ)のもとへ赴き、混乱からこれを守ろうとしたが、同じく保身をはかった衛カンの手先により殺され、トウ艾と息子のトウ忠(-チュウ)もまとめて誅殺された。
鍾会が乱を起こしたことで、師簒のようにトウ艾讒言に同調した者の立場は危うくなった。
そしてトウ艾が無事に生き残り、都へ帰還すると巴蜀の情勢を看過していた衛カンの立場が危うくなる。
互いの保身の結果が、トウ艾と師簒らの誅殺を生んだのである。
同じく讒言に加担した鍾会の部下であった胡烈(コレツ)は、鍾会の目論見を頓挫させた功績から罪には問われず、杜預(トヨ)は鍾会の計画に加担していなかったとして同じく罪に問われなかった。
トウ艾を殺した衛カンを杜預は露骨に非難し、衛カンはすぐに杜預のもとへ行き、頭を下げたという。
姜維とともに戦場を渡り歩いた張翼(チョウヨク)は乱の最中に戦死し、廖化(リョウカ)も都へと護送される途上で血を吐いて病に斃(タオ)れた。
政務官として鍾会に従った董厥(トウケツ)や樊建(ハンケン)らは都へと護送され、散騎常侍(サンキジョウジ)に任命されて、蜀の民心の慰撫にあたった。
しばらくして董厥が病死すると、白知秋(ハクチシュウ)というひとりの女子がいたことを知る者は、ひとりもいなくなってしまった。
姜維も、トウ艾も、鍾会も。
誰も望んだ結末を迎えることはできなかった。
それから数年の間、巴蜀(ハショク)の地は統治者を欠いて荒れ続け、今も不穏な気配を残したままだ。
そうして蜀漢(ショクカン)は滅び、魏(ギ)も司馬昭(シバショウ)の子司馬炎(-エン)に簒奪されて晋(シン)となった。
残る呉(ゴ)もそう長くはないだろう。
三国の時代は終わりを迎えようとしているのである。
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