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菻はすべてをその目で見てきたのだ。
蜀漢の滅亡と、姜維の最期を。
誰にも語ろうとしないのは、あまりに身近で見てきたからなのかもしれない。
軽々しくその生き様を語りたくないという感じだった。
少年にだけは、教えた。
なぜ教えてくれたのだろう。
「戦って、戦って、戦い抜いた人達がいた。国を想い、命を懸けて、最期まで抗った人達がいた。それを忘れないであげて。それを、誇りに思ってあげて」
菻の目が潤んでいる。
どうしたのと問うと、頭を抱かれる。
ふわっと甘い香りがした。
大きな胸に抱かれて、少年は慌てふためく。
菻はなにも言わずに、少年を抱き続けた。
赤子がぐずって、ようやく少年は菻から解放された。
よくわかっていない少年に対して、菻はほほ笑みかけた。
すべてを見つめてきた左の瞳が光っている。
少しして、涙が頬を伝った。
「あなたの父は、私の大事なものをいくつも奪った。時代が。家柄が。誇りが。周りが。色んなものが、あの人を追い込んだのね。きっと孤独で、寂しくて、そうする以外にどうしようもなかったの。私から奪っていった後も、寂しくて泣いているような人だったのよ」
言葉は、止まらない。
その想いと同じで、立ち止まってはいけないのだ。
涙。
どうして、泣いているの。
少年は尋ねたかった。
それを許さないなにかが、そこにはあった。
「奪って、後悔して、一緒に取り返そうとしてくれましたね。私のためを想ったのかどうかはわかりませんでした。けど、ただ、それが嬉しかった。ねえ、嬉しかったんですよ」
少年の胸のうちに熱いものが沸々と湧いてくる。
この人はなにを言っているのだろう。
いったい、誰に言っているのだろう。
その真意をはかることは幼い少年にはできなかった。
だが、菻のことを他人とは思えなくなっていた。
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