その目はなにを見る

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赤子が泣いている。 山中深くにひっそりと、少年の暮らす集落はあった。 人口は百にも満たない。 家は疎らにあって、平地に造られているのではなく、木の上に造られていたり、山の斜面に沿って建てられていたりする。 畠を持っている人も少なく、飼っている羊や兎、山で採れる菜物が主食だった。 少年はまだ子どもだった。 集落にいる子どもの数はけっして多くない。 赤子の声が収まってきた。 それを優しげに見つめる女性の前で、少年は座していた。 女性の顔の右半分を覆う緑っぽい色の布。 それが浅葱(アサギ)色だというのは、しばらく後になって教えてもらった。 隠されていない顔の左半分は整っていて美しく、集落に暮らす男の誰もが彼女に惚れ込んだ。 この女性は若くして集落を訪れ、そのまま居着いてしまった稀有な人である。 行くあてがなかったようで、この集落の雰囲気を気に入って、落ち着こうと思ったらしい。 腕のなかの赤子は、この集落で産み落とした。 つい数ヶ月前のことである。 夫ができていた。 若い男で、集落の羊飼いだった。 夫との間にできた赤子を、今抱いている。 女性の名前は、よくわからない。 漢民族の女性だということはわかっているのだが、それ以上のことを女性は語ろうとしなかった。 わからないので菻(リン)と皆が勝手に呼んでいる。 この集落は羌族(キョウゾク)の血が濃い。 かといって羌胡の族長と連携しているかと言えばそうでもなく、集落は山中で孤立していた。 昔、羌胡同士で血を争ったことがあって、それが少年の住む集落に強く影響しているのだという。 掟として羌胡と連携すべからずとされているが、少年には難しくてよくわからない。 ただ集落に暮らす老人達は、他の羌胡集落の話をすると真っ赤になって怒る。 なにがあったのかは、あえて少年も知ろうと思わなかった。 少年は誰よりも菻に興味を持っていた。 赤子を抱いているところを訪れて、頭を撫でさせてもらって、唄を聞かせてもらう。 菻の故郷の唄らしい。 澄んだ歌声が、少年は好きだった。 菻には不思議な雰囲気があった。 柔らかくて、麗しくて、それでいて脆い。 集落で暮らす誰よりも美しい。 外の世界にもこれだけ美しい人はいないのではないか、と少年は思っている。
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