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彼が迷っているうちに、馬車は主を気遣うようにそれは丁寧に動き出した。不躾に全身をはい回る青年の視線に彼は身を縮めていたが、やがて勇気を出して口を開いた。
「突然、何故このようなことを? あなたは……」
「私の名は、フェオドール・セイン・デ・オーランシュ」
黒の双眸に、冷酷な愉悦が浮かぶ。
「お前の母は、アンヌ・ブラン。そうだな?」
からからに干上がった喉が痛くて、ミシェールは無理矢理唾を飲み込んだ。
「……確かに、アンヌという名前です。でも母には姓はありません」
「ないのではない。隠していただけだろう」
相変わらず話が見えず、彼は拳を握っていた。
姓を持つのは、このローレンシア王国においては商人や貴族、王族だけ。辺境の小さな村で生まれ育った彼や、彼の両親には持ち得るはずがないものだ。
「すべて話してやろう。アンヌのことも、ブラン一族のことも。そして」
手が伸びてくる。びくりと肩をすくめた彼の髪を、フェオドールの指先が掬い取る。先ほどの振る舞いが嘘のような優しさで。
「お前の、『人の時を描く』力のこともな」
表情を凍り付かせた彼に、黒い瞳はますます楽しげに細められた。
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