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水が全てを呑み込んでゆく。
大地を、山を這うように。人も家畜も家々も、引きずり込まれるように暗い海へと沈んでいく。
泣き叫ぶ人の声、遠雷を伴い近付く嵐。
それは、築き上げられた小さな幸せたちが、一夜にして消え去る瞬間だった。
………………
……
その日、地球が動いた。
時は一六六七年、「アドリア海の女王」として名高い共和国、ヴェネツィア。そこを、かつて誰も体験したことのない恐怖が人々を襲ったのだった。
その音を聞いた者は最初、何事かと思っただろう。
果ての無い大海原の方から、まるで何トンにもわたる火薬を爆発させたような轟音が、静かな朝の町中を駆けずり回ったのだ。
それから間も無く、大地が揺れた。
続けて家が、家畜小屋が、教会が、レンガ造りのあらゆる建造物が、見るも無惨に倒壊していく。
その様を見た人々は、声にもならない叫びを上げながら、我先にと広い平原や建物のない山の中へと逃げていく。
それから長い揺れが収まるまでの間、人々は倒れるものがより少ないところで寄せ集まり震えていた。
暫くして、大地は元の静けさを取り戻した。
ようやく人々が町へと戻ると、壊れた小屋から抜け出た家畜が、町中を自由奔放に歩き、飛び回っていた。
生き延びた人々は互いに喜びを分かち抱き寄せ合い、今尚生かされた現実を噛み締めて、死した者たちに弔いの想いを込めた。
災厄は過ぎ去ったのだ。
その時、町の誰もがそう信じていた。
ゆらりゆらりと、徐々にその水面を下げていく海の姿に気付くこともなく。
………………
……
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