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それはある朝の出来事。信じられない事が起こった。
タイムズを握る私の両手はワナワナと震えていた。恐ろしさからなのか、はたまた怒りからなのか。いずれにせよ、当時の私にはその感情がどこからくるものなのか到底理解し難いものだった。
一八五三年、十一月。クリミア半島のセバストポリを出向したロシア黒海艦隊が、黒海南岸の港シノープを急襲したとの報道がなされた。
ロシア艦隊はいとも容易くトルコ艦隊を全滅させ、その上、艦砲射撃で街を焼き払ったとのことだ。その艦砲射撃により多くの市民が犠牲になったと、薄い紙切れは語っていた。
そんなタイムズの大見出しにはこう書かれていた──シノープの虐殺。
私の身体を吐き気と目眩が交互に襲い、思わず私は口許を押さえてその場に膝をついた。
「大丈夫か、オデット!」
「ええ、問題ないわ、パパ」
物音を聞き付けた父が、すぐさまキッチンから飛んできた。リビングの床に倒れ込んだ私の肩に、大きな手が添えられる。
「オデット」緊迫した様子で父は言う。「お医者様に無理はするなと言われてるだろう?」
「そんなに心配することではないわ。新聞を読んで驚いてしまっただけだもの」
乱れた呼吸を整えながら私は父に心配させまいと微笑みんで見せた。
「いいかい、オデット。モスクワへ行っても激しい運動は控えるのだよ? いいね?」
「分かってるわよ。パパはホント心配性ね」そう言い私はパパを宥める。
それから私は父の手を借りて立ち上がり、甘味と酸味が混ざり合ったような香り漂うダイニングへと足を向けた。
「パパ、今日は手伝えなくてごめんね」
ダイニングへと続く短い石の階段。
そこで思わず私の口を突いて出たのが、父に対する謝罪の言葉だった。
「何を言ってるんだ、オデット。いつもはお前が作ってくれているじゃないか。今日くらいはパパに頼ってくれよ」父は今にも泣きそうな声で言った。
「うん、ありがとう」
そうして食卓に辿り着いた私達。
テーブルにはユリを模した淡い緑色の刺繍の施されたクリーム色のクロスが広げられ、その上に真っ赤なスープの入った白い器が置かれていた。
私は思わず唾を飲み込む。
「今日はボルシチね!」
「ああ、そうさ! 可愛い娘を旅に出すようなものだからね、今日は特別だ。それとほら、これも食べていきなさい」
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