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この街の3月はまだ冬だ。あの大災害が起きた3月もやはり雪だったことを思い出す。凍りついたように全てが止まった街を、雪に降られてひたすら歩き続けた記憶が甦るので、洋一にとって、3月の雪はあまり見たくないものになっている。
でも自然現象は止められるわけもなく。今年も、そしてこれから何年経っても、自分たちの世代は永遠に3月の雪を呪い続け、その心の痛みを、叫ぶこともできずに押し込めて生きるしかないのだ。死ぬまでの間、永遠に。
空をちらりとだけ見上げる。洋一の眼鏡に降る雪は根気がなくてすぐにするりと溶けてゆく。ふぅっと白い息を吐いた直後、聞き覚えのある友人の声がズカズカと近づいてくる。
「よーイーサン、どうだい仕上がりは」
……イーサンって。洋一は苦笑する。
「だから別にスパイってわけじゃないんだけどな僕は」
「でも俺も知らんかったけどあのキャンペーン情報」
「……あぁ、……まだ公式には出てないんだっけ」
「出てなかったでしょー。てか編集長はネット検索を知らんのか」
イーサンとか編集長とか、妙な名前で洋一のことを呼ぶこの男は、洋一──佐藤洋一が中学生の頃にクラスメイトだったことがある友人だ。西田勝、という。高校からは洋一側が引っ越したため一時期疎遠になっていたが、ローカルアイドル「リトルアリス」のファンとしてミニライブで再会してから、またつるむようになった。
洋一は今でも実は東京で暮らしている。ネットカフェのバイトなんかをしながら何とか食いつないでいる程度で、決して生活に余裕があるとは言えないのだが、月に1度の定例ライブには顔を出すようにしている。
勝が「編集長」と呼ぶ理由は、洋一が手に提げている袋の中身のせいだ。雪になるかもしれないとは思っていたのでナイロンの袋の中に埋めてきたが、そこには「リトルアリス」の私設ファンクラブ会報誌が入っている。正式なファンクラブは存在しないから、勝手に名乗っているに過ぎない。
中身はほとんどが公式ブログ等で発表されているレベルの情報だが、時々、まだネットには上がっていない活動情報がしれっと載っていたりする。そのせいで勝には、スパイだ諜報部員だミッション・インポッシブルだイーサン・ハント(※ミッション・インポッシブルの主人公)だ、などと妙なあだ名をつけられるハメになっている。
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