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「天后」
声を掛けながらぽんと柔らかく背を押すと、ぎゅっと拳を握った後、天后は青龍に勢いよく頭を下げた。
申し訳ありませんでした、と深々と頭を下げて言う天后を仏頂面で――今度の理由は困惑だ――見下ろして。青龍は僅か目線を泳がせた。
その視線は一度貴人に向いたが、その貴人が笑いを堪えるような顔をしていることに気付き、更にむっと眉を寄せた。
「天后」
「……はい」
「出掛ける時は行き先を言ってからにしなさい」
「…………」
堪えきれなくなった貴人がつい吹き出してしまったのと、天后がぽかんと青龍を見上げたのは同時だった。
青龍は益々酷い顔をして――居心地が悪いのだ――くるりと背を向けた。
そのまますたすたと足早に歩き出す青龍の背を見て、一度貴人を振り仰いで。その貴人がにこりと微笑むのを見た天后は、明るく笑って青龍を追いかけた。
追いついた天后が青龍に向かって何か言い、青龍は足を止めることはないものの、それに応えている。
……歩く速度が少しばかり、気付かれない程度にだけゆるやかになったことが解るのは、やはり貴人だけだろうけど。
恐ろしく素直でない男の内心を慮って、黙って見守ることにした。
振り返って貴人を呼ぶ、輝かんばかりの笑顔の天后に手を挙げて応じると、貴人もまた歩き出した。
二人の後を追いながら、ふと、貴人は空を仰ぐ。
陽の沈みゆく空は茜に染まり、やがて落日を迎え夜の闇が訪れる。
……しかし、夜の次には朝が必ず来るように。世界は闇ばかりでも光ばかりでもない。
例えば世界が混乱し、闇に陥ることがあろうとも、それでも再び、世界に光が満ちる日は必ず来るのだ。
否、そうしなければならない、と思う。
目の前を行く天后や、匂陳に朱雀と言った若い世代が、笑顔で居られる世界に。
彼女らこそが光であると、そう、思うがゆえに。
少し歩調を速めて二人の直ぐ後ろに追いつくと、天后の笑顔が目に入る。
青龍は表情を変えないままだが、天后を見る目は優しい。
二人の姿を目を細めて見詰め、そうして貴人は、陽の落ちていく先を見詰めた。
世界の変貌は間近に迫っている。……いや、既に変貌は始まっているのだろう。
だがそれは、恐れるべきことではない。
光はいつでも、其処に在るのだから。
了
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