「白い鼻」 リュース・匙田 作

2/9
前へ
/9ページ
次へ
ライトホラー短編集 第2章 「白い鼻」    リュース・匙田 作  ある晩秋の夕方、俊は自称「ヤケクソ・ワーゲン」(他人はボロクソワーゲンと笑う)愛車のカブト虫を、自宅へと走らせていた。     「腹へったあ」  交渉相手である先方営業部の都合で、昼飯ぬきになってしまったからだ。  さっき、妻のユミに電話したから、今頃は夕食を作ってくれているはずだな、そう思うだけで、俊は単純に幸せな気分に浸ることが出来た。  今日は冬のような冷え込みだ。  首都圏のS町でさえ、年に何度かこんな季節外れの気温になる。  トワイライトというか薄暮の頃ともなると、路面がかすかに凍る。  「ヤケクソちゃん、ヤケを起こすなよ、ゆっくり帰ろ」  と国道から、すこし狭い県道へとハンドルを切った、そのとたん、赤い光で目を射られた。  県道の右側には、住宅がまばらに数軒並んではいるものの、左側は、田んぼが続いていて街灯ひとつない暗い道である。  その田んぼの側溝へと傾斜してしまった二個のハザードランプが、激しく点滅している。  「わあ、田んぼの溝へ突っ込んだのか?」  近くなるほど、赤い光が眩しさを増してくる。  どうやら、軽乗用車が田の溝に脱輪したものらしい。他車はスイスイと、見ない振りをしてすり抜けてしまう。  「これって、無視できないだろう」    中国のテレビで、幼女が車に轢かれ、血まみれで路上に倒れているのに通行人の誰一人、助けるどころか見向きもせず通り過ぎてゆく前代未聞の、非情極まる映像をみたばかりだ。  俊には、いま救助することが当然の義務のように思え、傾いた乗用車の二米ほど後ろにワーゲンをゆっくりと停車させた。  俊は降りて行き、窓越しに車内をのぞき込む。  手前の運転席に、蒼白になってハンドルに肘を突いているのは、八十近いのではないかと思える老人だ。脱輪した助手席側には、同年代くらいの妻らしい老婆が、夫にしがみついている。  事故が起きて、まだ数分しか経過していないに違いない。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加