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考えあぐねている時だ。
背後から、バフバフと長靴の音がして、同時に野太い男の声がした。
「どうしたべえ?」
振り返ると、停めた四輪駆動車から釣り帰りらしい身なりの中年男が、頑丈な日焼け顔で近寄ってくる。
「ありゃりゃ、脱輪かい。」
男も車のフロントに回って、「あちゃあ」などとおどけたように叫んでいる。
「よツ、あんちゃん」
男は、俊を指さして言った。
「ちょっと、手伝ってくれ。」
言いつつ、自分はどんどん泥の中に入った。
「よし」俊は、頼もしい助っ人に鼓舞されて右前輪のあたりに手をかけた。
「行くぜい、せーの!」男は、威勢よく叫んだ。
「せーの!」俊も、声をあわせた。
軽乗用車が、ぐらりと揺れた。
「いけるぞ」男が言った。
「うん」
俊がわずかに態勢を変えた瞬間だった。
右足が、ずるっと泥の中に入ってしまった。
「うへツ」
「せーの!」お構いなく男の催促だ。
「せーの、せーの!」俊も本気になった。
地面が硬ければ、どうでもないのに泥だから手間取った。
「やったい、どんなもんだ!」
男の声と車が上がるのとが、同時だった。
「や、やりましたね」 俊も、思わず荒い息で叫んでいた。
「まあ、まあ、ほんとに」と、老婆が震えながら言った。
「ありがと、えらかったねえ、すんません」
老人が、何ども頭を下げていた。
釣り姿の男は、灌漑用水で泥の長靴を洗っている。
俊も真似をして、右の靴を洗った。
「あの、どなたさんか、名前を教えてくれんかね。」
老人は、長靴の男にむかって訊いている。
「いんや、気にすんなや、ほんじゃ、これで」
くるりと、広い背中を向けると、長靴の男は自分の四駆で走り去った。
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