成り代わり

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契約書を確認し、ヒトエに渡す。ヒトエはそれを手に取ると、ざっと斜め読みをしながら、のっそのっそと奥へ去って行った。 「ええと、では変装のため写真を撮りますので」 「あ、はい」 「では、こちらへ」 俺は席を立ち、瀬戸を部屋の奥へとうながした。 「では、撮ります」 ――パシャッ! 「はい、これでオッケーです。あとは、こちらで用意する者があなたに成りすまして仕事をしますから」 「はい、なんか、妙な気分ですね。緊張してきました……」 瀬戸は、いくぶん顔を紅潮させている様子である。 「それでですね、仕事をしていくうえで必要なことを、いろいろと教えていただきたいので、あちらで」 俺は携帯電話を折りたたんで胸ポケットに突っ込みながら、さっきまで座っていたテーブル席を指した。 「あ、はい! そうですね」 瀬戸はさきほどまで座っていた席につき、横に置いてあった自分のアタッシュケースから資料を取り出してテーブルに並べる。 「ではまず、同僚の方から教えてください」 「はい!」 瀬戸は机の上に並べてある写真のうち一枚を手に取ると、俺の方に向け 「ええと、うちの部署は全部で五人です。一番偉いのは、この榎本課長で……」 と、写真の人物を次々と指でさしていく。 「……それで、この女性が事務の鈴木さん、です」 「なるほど、同僚の方はわかりました。あとは、仕事のことをいろいろと教えてください」 「はい、ええと……」 俺の質問に瀬戸はアタッシュケースから黒い手帳を出し、開いて俺に向けた。 「これは、私がいま抱えている得意先のリストです」 手帳には細かな、しかし綺麗な字で会社の名前、担当者から事務機器の設備、リースの契約期間にいたるまで、様々なデータがびっしりと書き込まれていた。 「すごいですねー、こんなに詳細に……」 「いやあ」 感心する俺に照れたのか、瀬戸は頭をかいた。 ――こんなに細かい作業ができるのに、なぜ成績が揮わないのか…… 俺は一瞬疑問に思ったが、最初に瀬戸が言った言葉を思い出した。 ――人とのコミュニケーションが苦手、か……あの言葉に集約されているのかもしれないな。 すべての人には、得手不得手というものがある。誰しもみな、得意な才能だけでメシを食えるわけじゃない、ということなのだ。 ――事務みたいな、自分の能力を発揮できる職場に出会えていたら、ここに来ることもなかっただろうに……
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