街灯のオレンジは飴玉みたいで

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 などと女性の先生は意地悪なことを言ってきて、私は返事に困っていた。名前を澄子先生といった。細身で肌は白く、髪の毛は短めの優しい目をした人だった。澄子先生は私が困っていることを知ってか、私のそういう部分にそれからはあまり触れてこなかった。私も先生を気遣って出来る限りみんなと仲良くしようと頑張った。  澄子先生の絵の指導はとても新鮮だった。というのも今まで一人で夢中になって描くことしか知らなかった私にとっては当たり前なのだけれど、とにかく楽しくてしょうがなかった。私はとても居心地のいいこの場所が大好きだった。  小学生になり、アトリエでの何人かとは学校で一緒だったりした。週に二度のアトリエでの時間、公園の池に集合して絵を描いたりもした。この頃にはすっかり仲良くなれたみんなとの会話や空気感を未だに覚えていたりもする。団子虫を青い水彩絵の具で塗ってはしゃぐあの子も、せっかく描いているのに石を投げ入れては水面を乱し、邪魔をしてくるあの子も。みんなの後ろを歩きながら絵を覗いてくる澄子先生も。  この時に描いた池に泳ぐ鯉の絵はどこへ行ってしまったのか忘れてしまったが、私は秋口の金木犀の香りをこの時に覚えた。  この年の十二月、いつものアトリエの帰り際。 「はい、これクリスマスプレゼントです。みんなには内緒だからね」  澄子先生はクリスマスプレゼントと言ってペンケースをくれた。開けると中にはカラーペンが詰まっていた。私は自分だけ特別扱いされた事に何となく恥ずかしかったのを覚えている。  このまま私は小学校を卒業する間際まで通い続けた。生徒のみんなは他のことに興味が出てきたのだろう、大半は辞めていた。そしてこの頃からアトリエが休講する事がちらほらとあった。母に理由を聞くと、澄子先生はどうやら体調が良くないらしい。小学生の私は対して気にも止めていなかった。休講の日には時間が出来たと思い、友達と遊ぶなり家でゲームをするなりしていて他に楽しむ方法はいくらでもあった。毎回ではなかったものの、休講は約一年半程度続いた。  そのまま小学校六年生へあがった頃、私はアトリエ教室を辞めた。というよりアトリエ教室は閉鎖して終わったのだ。その二年後だったと思う、澄子先生は死んだ。  
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