二章 ~矜持~

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   開け放った窓からリビングへと、新緑の香りが微かに流れ込む。  家具や装飾品など、派手ではないが上品な雰囲気の漂う空間であった。ゆるく、演歌のメロディーが流れているが、不思議とこの空気に違和感なく溶け込んでいる。  国原良樹の自宅は、台東区のJWA道場から小一時間の住宅街にあった。  一年の大半を地方巡業で費やす彼は、この空間で過ごすひと時を何より大事にしている。  旨い酒を飲み、妻の美味い手料理を堪能し、大好きな演歌の世界に浸る。  日々肉体を酷使している男にとってそれは、至福とも言える癒しの時間であった。  その空間に、少しばかり居心地の良くなさそうな若者が、国原と向かい合わせに座っていた。  明神武士。  上背こそないが、どっしりとした、巨岩の様な体躯である。  肥満ではない。鎧の如き太い筋肉を、全身にまとっている。  その見事は肉体と裏腹に、彼の表情は常に何かを警戒しているような、草食動物のそれであった。  今も大先輩である国原を目の前に、その岩石の様な身体を無理矢理に縮こませている。 「武士よぉ」  大好きな焼酎に顔を赤らめ、烏賊下足を口にしたまま国原は、対面の岩石に呼びかける。 「お前さん、何でこの業界に入ったんだ?」  遠慮がちにちびちびと飲んでいた水割りのグラスを置き、明神は向き直った。 「いやあの、プッ、プロレスが、好き…だから、です」
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