序章

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   春とはいえ、夜は未だ底冷えのする、フロリダ州タンパ。  憂木が、所属するプロレス団体であるJWAから海外修行を命じられたのは、17歳の時だった。  わずかな渡航費用を渡され、無期限で海外へと放り出された彼を呼び寄せてくれたのが、ハンス・ボックというドイツ系のレスラーだった。  憂木は、喜んで彼の住むタンパへと身を寄せた。タンパ帰りは強くなれると、先輩レスラーから聞かされていたからだった。  同時に、ボックというレスラーの人となりについても、憂木は耳にしていた。  いわく、堅物。シュートの鬼。偏屈ジジイ。しかし、彼を指す言葉のどれもが生易しく思えるほど、ボックはプロレスラーという枠から大きく外れた男だった。  まず、練習量が半端ではない。  JWAの道場で慣れていたはずのトレーニング――スクワット、プッシュアップなどを、ボックはそれぞれ、ぶっ倒れるまでやらせる。それだけで、午前中の5時間は潰れる。    午後からは、スパーリングが行われる。ボックの決める関節技を、憂木は必死にもがき、極められないように逃げ回る。  ボックは、憂木の頬骨に肘を押しあて、また腹を押し付けて呼吸を塞ぎ、巧みに脚を絡め取り、腕の、肩の、足首の関節を極める。  憂木が軽い悲鳴とともに、ボックの身体をタップしても、ボックは技を解こうとしない。それがまだ、本気の『参った』でないことを分かっているからである。  さらに締め上げ、あと数ミリ動かせば折れる――ギリギリの所まで、極める。  憂木から、本気を上回る、本能の絶叫が漏れた時が、初めて技の解かれるタイミングだった。    
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