坂の傾き

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「それが、ここなんだね。」 桜は目の前の坂をそっと見上げる。僕も立ち止まって、この道の向こうとあの日々の空を眺めた。桜の樹を始まりとして立ち並んでいた目に余るほどの緑も、今ではその桃色を除いた全てが灰色に変わっている。ここ数年は蝉や鈴虫の歌を聴くこともなくなり、代わりに無機質な響きだけが耳につくようになった。 桜の樹のすぐ隣まで行き、変わりきったこの坂をもう一度見渡した。暖かい風が坂を下ってくる。それは桜の髪の間を抜けて、振り返った僕の前には前髪を押さえる彼女がいた。 「あ、この樹……。」 大樹の幹を撫でながら桜は呟く。その手が置かれた所には、深い、斜めにのびる一筋の傷跡があった。 僕はその傷を知っている。何も覚えてはいないけど、確かに知っているんだ。どうしてこうなったか誰がこの線を引いたか、思い出そうとすると頭が痛かった。なんとなく、今は思い出しちゃいけない気がした。 「じいちゃん?」 いつの間にか桜は坂を登りはじめていた。相変わらず穏やかに流れくる静かな風とあの頃の日々。緩やかな傾斜の途中で髪をなびかせながら振り返るその姿が、いつかの誰かと似通っていていやに懐かしく思えた。 「ああ、行こうかね。」 僕も桜の後を追う。目を瞑っても歩けるほど幾度となく往復したこの道も、今では足場を確かめるように杖をのばしていることがとても悲しい。 昔は傾きなんてないかのように走りまわったこの坂が、少しだけ緩やかでなくなった気がした。
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