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発端
時に、皇紀2606年(昭和21年)大日本帝国は未だ降伏していなかった。
何故に?
事の発端は4年前に遡る。
昭和17年4月18日、太平洋上の米国機動部隊から発進した、ドゥーリットル攻撃隊による日本本土初空襲があったその日。この時点から、歴史は変わった。
米国陸海合同軍は空母2隻から、双発で中型の陸上爆撃機【B25ミッチェル】16機を、半ば強引に発艦させ、帝都東京を空襲したのだった。いくら汎用性の高い機体、空戦以外は何でもこなすB25と言えど、片道切符の用兵は流石に無茶な作戦だ。
太平洋の制海権、制空権を日本軍が握っているこの時期では、日本本土に近づくにも限度があった。それだけ米軍にとって苦肉の策だったのだが、実行に移されたのは戦術的戦果よりも、日本国民に不安と動揺を与える戦略的効果を重要視しての結果だ。
事実、空襲による日本側の直接的な被害はほとんどなかったのだが、国民の陸海軍への不信感が急激に高まる結果となった。なぜなら、帝都防空の任を帯びて要撃に上がった航空隊はB25を取り逃がす大失態を晒したからだ。
空母へ着艦する事が不可能な、ドゥーリットル攻撃隊は悠々と本州を横断し、中国深部重慶へ離脱する離れ技をやってのけた。
一方日本側の状況は、陸軍、海軍双方の連携は全く機能せず、個別の航空隊毎に行った要撃行動では、敵攻撃隊の進路さえ予測できずに、敵の作戦遂行をおめおめと許してしまう失策を演じた。
1機も撃墜できずに帰投した、陸海軍の航空隊に、世間の反応は冷く、絶対防空圏を守れなかった両軍への風評は、時の陸海軍の大臣を辞任に追いやる程に、酷く厳しいものだった。
国民の追及を逃れる為に、互いに責任をなすりつけ合う、帝国陸軍と帝国海軍。
ではと、一計を案じて、本土防空を専任とする組織を作っては、との考えに行きついたのも自然な流れだったかもしれない。
以後の重責から解放されようという、両軍の意見の一致をもって、場当たり的に急遽編成されたのが、帝国空軍の始まりだったのだ。
そして今、昭和21年4月。
当初は何も期待されなかった、帝国空軍の活躍により、大日本帝国は辛うじて制空権を保っている…。
これは、消えゆく前のロウソクがごとく、
敗戦の直前にひときわ輝いた彼ら、帝国空軍将兵の物語である。
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