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翌週も迷は訪問した僕を振り向きもせず、机で落書きをしていた。
ただ、そのルーズリーフはどうやら化学の授業ノートらしく、可愛らしい色使いの化学式が目に飛び込んできた。
アルコールのモデルだった。
心の中で僕はガッツポーズをした。
届いてはいる。
まあ偶然かもしれないが。
ところがその日は何を話しても、何を尋ねても完全にスルーされ続けた。
なにかまずい事でも言っただろうか。
思いきって僕は椅子を引き寄せ迷の真横に回り込んだ。
ノートを覗き込む。
繊細なタッチのイラストの下に、何度も消した跡がある。
その片隅に、薄い点々がハート型を縁取っているのに気づいた。
ノートを横取りしたかたちで僕は自前の赤い鉛筆でそれをなぞっていった。
ハートを繋げた途端に焦ったような気持ちになってしまった。
迷は僕のイタズラにびっくりしたように固まっていたけど、機転をきかせた僕がわざとシミのような汚れまでなぞって、漫画に出てくる宇宙人風に書き足すと、困ったようにくすり、と笑った。
机と直角に配置された本棚に手を伸ばしかけて、ふと立ち上がると、迷は横づたいに締め切られたカーテンへと足を運ぶ。
最初に外を見ていたベランダへの引き戸窓だ。
目を凝らすと何か動いている。
「みのむしだ」
迷の小さな発見を称えるように喜びを滲ませて僕は雰囲気をリセットする。
小さな蛾の幼虫が背負って歩くみのを、迷が優しく指でつまむと亀みたいに足を引っ込める。
「柔らかい。案外かわいいかも」
カーテンから引き離すと、カラカラと引き戸を開け、迷は幼虫をベランダに放してやった。
もぞもぞと再び自由に歩き出すのをガラス越にじっと見つめる。
そんな仕草一つに目が離せなくなっていた。
(純真か。抗体を作ってやる必要があるな)
治療計画を練るふりで言い訳をする自分自身に、この時はまだ気づいていなかった。
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