秋 津

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 鎌倉の伯父…源頼朝は治承四年(1180)四月に以仁王が発行した平氏討伐の令旨に呼応して、同年八月十七日に伊豆の目代・山木判官兼隆を討ち、緒戦を飾った。  その後、富士川の戦いや墨俣の戦いなど対平氏戦を行ったが、養和元年(1181)から寿永元年(1182)にかけて全国的大凶作に見舞われ、戦闘停滞に甘んじる他ない状態となっている。  しかし頼朝は鎌倉に鎮座して無為な日々を過ごしていたわけではない。  合戦後の処理や関東の源氏ゆかりの武士達や関係者などとの交友を確認、深めるなどの地盤堅めを行い、朝廷との政治的交渉にも眼を配っていた。  その一つが養和元年(1181)八月の“和睦申し入れ”である。  「そやけど内府殿はお断りになられたのですって」  「まあ……なんで?」  「相国入道殿のご遺言…やそうよ」  「ご遺言…?」  南都焼き打ちで“仏敵”との悪評を高めて、全国的に反平氏の波が押し寄せる真っ只中、治承五年(1181)二月二十五日頃に発病した平清盛の“頭風”は、翌月の一日には“絶望的状況”として世間に流布した。  そして治承五年(1181)閏二月四日の戌の刻、九条河原口の平盛国の屋敷で、高熱にのたうち、既に挙兵している頼朝の動向や幼い孫の安徳帝の将来など、多くの心残りを抱えたまま六十四年の生涯を閉じた。  己の仏事について細々と指示する他、  『子孫はひとえに東国の謀反が治まるように計らうべし』 と命じ、さらに  『子孫の最後の一人の骸を頼朝の前に曝すまで戦え』 と遺言したという。  「だから相和す事など有り得ない…と」  「ええ。でもこの旱魃飢饉でしょう?兵糧を集めようにも集めるべきものがないから、動くに動けないのやとか…」  「では飢饉が収まれば戦が?」  「そう…おたあさんは鎌倉の伯父様が今はお静かにしてはるのは、時が満ちるのをお待ちになっておいでなだけや…とおっしゃってはったわ」  「時が満ちる?」  静尾の問い掛けに頷きながら、  「おたあさんは土佐の兄上(※1)は心優しい方やったけれど、鎌倉の兄上は普段は物静かでも一度立つと手の付けられないようなキツイところがおありやった……て」  と綾子は続けた。  「へぇ…鎌倉の伯父上様は確か十四のお歳に伊豆へお下りになられたのでしたねぇ」  「そうよ。土佐の伯父様は九つでいらしたと伺うてるわ」    
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