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人々が信仰から離れていくと共に、蛟の力もその身から零れ落ちていた。最早彼の身に大きな力は残っていない。
だが、そんな彼に――否、龍族には、それでも最後の力とでも言うべき甚大な力の源が存在した。
逆鱗、と呼ばれるそれ。
力の源であり生命の源でもあるそれを失うことは、死と言う名の消滅を招く。
……その、最後に残されていた全てを、蛟はイッポンダタラに預けた。
けれどそれは、諦観のゆえでも、自棄でもない。寧ろ生きようと思う心の全てだった。
「多分間違いなく、君が最後の一人だろうから」
だから彼と共に、彼の生あるうちは、生きてゆきたいと思う、その心の全てだった。
この目の前の水が美しく澄んでいるのはきっと、蛟を思ってくれるイッポンダタラの心があるから。
いや、他にも居てくれているのだろうとは思う。訪れなくとも、言葉にしなくとも、胸の内で祈りを捧げてくれている者は皆無ではないだろうと。
だけどやはり、イッポンダタラが、蛟にとっての最後の一人だと思う。……そうしよう、と決めた。
仮にも神の名を冠する自分が、本来なら絶対にしてはならないことだけれども。
あんなにも、魂が打ち震える程に美しい想いを贈ってくれた彼に、心動かされないようなイキモノに、生きる価値などないように思う。
長く長く、数百年を生きた蛟の、イッポンダタラは唯一最後の特別だ。
……数百年の末の、たった一つの、我儘だ。
「許されなくとも」
そう、決めた。
それに、イッポンダタラが居なくなれば、……イッポンダタラの中から蛟の存在が失せれば、どのみち蛟の生は長くない。
水は濁り干からびて、社は崩れ蛟は死ぬ。
無論、だからと言ってそれが免罪符になるわけではないと、解っているが。
「一つだけ」
自分に――或いは誰かに――言い聞かせるように呟いて。
蛟はもう一度、其処にない逆鱗を確かめるように、喉元に手を触れた。
最後の力、力の源は、彼に預けた。
だけどその代わり、蛟の手元には、イッポンダタラが蛟を思ってくれた心と、かつて蛟がイッポンダタラを思った心とが籠められた、美しい守り刀が在る。
……そしてそれが、今の蛟の、力になる。
ふいと顔を上げ、そうして社に目を向ける。
其処に収めた、魂の込められた刀の存在にあたたかくなる心を自覚して。
蛟は静かに、微笑した。
了
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