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以前、誰だったかに名を――彼にとっては存在そのものであるそれを、間違えられたのだと。
怒るというよりは拗ねる調子で愚痴ってきたことがある。
その人間臭い口調や表情に、イッポンダタラは笑いを堪えた覚えがある。
なのに、今の彼にはその頃のような感情の動きがまるで見えない。……感情も、表情も、存在も、すべてが稀薄になっているようで――
「蛟」
不吉な考えを振り払うように。イッポンダタラは再度声を掛け、真っ直ぐに己を見詰めてくる、静かな水面を思わせる瞳に向けて、手を差し出した。
その手には、今日此処を訪れた理由を持って。……暫くの間手が空かなかった理由を持って。
目の前に差し出されたそれに、蛟はゆるく首を傾げた。
「これを、お前に」
言って、手に持ったそれを蛟に受け取るよう促せば、蛟は漸うそれに手を伸ばした。
「……刀」
「ああ」
静かな呟きに、肯く。
「お前にと思って鍛えてきた。守り刀だ」
イッポンダタラは刀匠だ。手前味噌ではあるが、腕はそれなりだとの自負もある。
だが、イッポンダタラが鍛える刀には不思議な――言ってしまえば余りよくないものが、憑いてしまう。それが故、鍛えた刀を自身で折ることが殆どなのだが。
「蛟。……先に謝っておく。すまん」
「……謝られる理由が解らないんだが」
興味深そうに手の中の刀を眺め、目を細める。
「こんなに神聖な気を持つ刀に何を、」
謝るのか、と続けてから、蛟はおや、と僅か目を瞠った。
「これ……」
「ああ」
みなまで言わせず、イッポンダタラが後を継ぐ。
「以前に、お前から貰った鱗を使わせてもらった」
それは随分と前のこと。
社に参り来たイッポンダタラは水守の蛟と出会い、それから時間を掛けて少しずつ互いの間に友情を育んだ。そしてある日蛟から、守りだと言って一枚の鱗をもらったのだ。
銀色に輝くそれは美しく、神々しく。当たり前だがそれは、水神である蛟のものだった。
「生涯手放さない、と言った言葉を破ってしまった。……すまない」
深々と頭を下げたイッポンダタラに、蛟は困惑の色を浮かべて更に首を傾げた。
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