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「……だから泣くなっ」
言ったら、更に奈緒美は泣いた。
逃げ道は塞がれている。
泣かせるだろうなという覚悟はあった。
俺は息をついて、これだけと千香よりも背の低い奈緒美の額に唇を当ててやった。
どこにキスしてとは言われてもいない。
俺のファーストキスは千香にしかあげない。
奈緒美の気持ち、俺を好きになってくれた気持ちは受け止めてやれないけど。
ありがとうと感謝の気持ちを込めて。
これくらいキスしておけば満足するかなと唇を離したところで、自転車置き場の低い壁の向こう側にいた千香と目が合った。
思いきり見られていた。
千香は隠れる。
隠れてくれても、見られたものは見られた。
頭の中が真っ白になる。
浮気だと言われてフラレるかもしれない。
今すぐあれは違うと言いたい。
「……これ以上はしないっ。絶対にしないっ。さっさと帰れ、奈緒美っ」
俺は千香に言っているのか、奈緒美に言ってるのか。
とにかく千香とちゃんと話すために奈緒美を帰らせようとしてみる。
「…無理矢理する」
奈緒美は俺に抱きついてこようとして。
そこに千香がいると思うと、さっきの見られて更になんてされるわけにもいかなくて焦る。
「やめ…っ、さわるなっ、おいっ」
俺は奈緒美から逃げようとして自転車から手を離して、大きな音をたてて自転車は倒れる。
じりっと下がるとじりっと奈緒美が間を詰める。
これはなんのにらみ合いなのかというような、無言での間合いの取り合い。
「…おとなしくしてよ」
「デコチューくらいでいい気になるなっ」
「また泣いてやるっ」
「泣いていないでさっさと他にいけっ。山瀬にいけっ」
「若林に山瀬がアピってるからっ?ちょっと隆太っ?」
「千香は俺ので、俺は千香のっ。俺は千香に惚れてるんだよっ」
千香に言ってるのか、奈緒美に言ってるのか。
奈緒美はそこに何かを言うこともなく、もう一回泣くこともなく。
俺に背中を向けて走っていった。
俺はほっとしつつ、今度は千香にちゃんと言わないとと千香が隠れたところに回った。
千香はいなかった。
地面を這ってどこかに消えていた。
…俺の告白…、なんであいつは聞いてない?
俺は溜め息をついて、千香がいそうな待ち合わせの公園に自転車を起こして向かう。
…フラれそう…。
いかないともっとフラれそう。
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