Introduction-少女の憂鬱-

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 洗面所を後にした凜は、しずやかな足運びで居間へと向かう。  階段と同様に古びた廊下の板張りは、シンと冷ややかに冴えていた。  冴原邸の、家屋としての歴史は古い。その建造は昭和30年代というから、経てきた歳月は少なくとも五十年に近い計算になる。となれば必然、その建材も相応の年月を重ねていることは明白だ。屋内を見渡せばそこかしこに見窄らしさの影が映るのは、致し方ない事であったのかもしれない。  古く、湿気た造りの内装ではあったが、ここは凜が幼い時分から慣れ親しんだ住居である。華やかさは無くとも、どこか特有の趣ある我が家の雰囲気を、彼女はことのほか気に入っていた。  洗面所を出て右手に進むと、廊下の先に白い襖が見えてくる。凜はその前に立つと、すげなくして間仕切りを横へと滑らせた。  その先には、畳が敷かれた十畳ほどの和室があった。ゆとりある面積の中央に円形の食卓を構え、部屋は今、朝餉の香りに満ちている。そこには、質素ながらも朗らかな、心和む朝の景色が待っていた。 「おはよう、凜。今日は珍しく早いな?」  居間の奥、和室に併設されたキッチンの影から男の声が親しげに響く。低く落ち着きある声だった。凜が声の元へ視線を向けると、そこには口髭を蓄えた壮年の男性が、エプロン姿で笑いながら立っていた。  優しげでありながら、その肢体は逞しい。男のその容姿は、実年齢を鑑みれば、実に若々しく精悍な印象を与えるものだった。 「うん……おはよう、父さん」  その男性に向けて、凜は年相応の少女らしさで柔らかく微笑み、そう言った。  平素からしかめ面で他者に中々気を許さぬ凜である。その力みない、普段の彼女からすれば無防備に過ぎる微笑みは、ただそれだけで目前の彼が、凜にとって格別の人物であることを窺わせるに十分だ。  それも当然のことである。今、彼女の前に立つ男の名は冴原修。彼女にとっては唯一の家族であり、名実ともに良き理解者でもある、冴原凜の父親その人であったのだ。
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