第一章

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 幼少の記憶から蘇る初枝と同じ笑み。去年と比べても小さくなった初枝だが、まだまだシワだらけの瞼の奥にある双眸は生き生きとしていて陽介の惰性を蔓延らせる余地を与えなかった。 自分がまだ無邪気だった頃からの優しくも厳しい口調に根中を押され風呂場に向かく歩調が早まる。 「あ、ようちゃんやそこだよ。この前は先に帰ってここには来なかったから分らんでも無理はないか~」  早くばあちゃんに認められたい。孫がそれだけは純粋に思っているとは知らない初枝が「今日からまた楽しくなるねー」と言い生涯で最後の孫になる陽介を脱衣所の閉まった戸の前で見送りクシャリとまた笑った。 「いってきます!」 「暑いから気をつけるんだよ?」 「うん!」  昨晩風呂から上がった陽介は、履歴書をコンビニに買いに行くついでにスーパーの前に設置されたボックスでお手軽な証明写真を撮ると何枚もの提出用の履歴書を制作してから眠りに就いた。  その甲斐あってか眠気眼の陽介の下に早速何件かの面接の電話があった。直ぐに行ける物は即日でお願いし、それが葬儀の参列者を彷彿させる格好をした陽介が初枝に見送られ出かける理由である 。  この時期に全身を黒で統一するなど自殺行為にも程がある。都会でそんな格好をしようものなら確実にファシッョンセンスを疑われる。そもそもそんな物を養う経験をしていない陽介がそれに気が付くのはもう少ししてからなので仕方がない。  ――正直自信がない。  それでも出来る限り見形を整え偽りの志望動機で経験不足を取り繕うとしている。何件かは考えただけで吐き気をもよおす接客を含む可能性があるが、あの初絵のクシャリ顔を見たら尻込みや好き嫌いを言ってる暇などない。と、その嫌いな人間の壁を擦りぬけ携帯のナビで面接会場を目指す陽介は覚悟した。  これだけでも引っ越した意味があるのだが、あくまでも陽介の引越しをした目的は自分を見下した人間をぎゃふんと言わせたいだけである。自分を蔑み哀れんだ矮小な人間を今度は自分が見下し踏みにじりたいだけなのだ。  本日も太陽が猛攻撃を仕掛け茹だるコンクリートジャングルを不気味な眼で歩く青年。大嫌いな人間の中を歩く毎に瞳は輝きをなくし虚ろになる。歪で黒ずむ入道雲が眩しく輝く空を食いつくそうとする日々が続く夏。陽介の澱んだ気持ちに更に靄が掛かり始めていた。  七月十五日。
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