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「よく…お聞きなさい…」
その人は胸を真っ赤に染めて、覗き込んだ幼子の顔に血を飛ばしながら言った。
「逃げなさい。できるだけ遠くへ…村の…灯りが見えなくなるまで…遠くへ行きなさい。灯りが見えなくなったら…じっとして、朝まで動いては駄目…。」
不規則な呼吸はひどく苦しそうで、ひゅーひゅーと空気のもれる音がした。
「朝になったら、食べ物を探して…三日のあいだは…山を降りては駄目よ…。三日がすぎたら…山をおりて、人を探しなさい。」
しゃべりつづけるその人を止めることはできなかった。
止めたらきっと気力が尽きて終わってしまうから、唇を噛み締めて何度も必死に頷いてみせる。
「…て。生きて…生き抜きなさい…。お前は、お前だけは…死んでは駄目。血を絶やしては…駄目。…やがて…お前が十分に強くなった…ら、あの方を探しなさい。何処にいても…お前なら…見つけられるから…見つけて、護りなさい、一時…一秒までも…あの方を忘れては…駄目よ…」
腕を掴む力が次第に弱々しくなっていく。
もうすでに限界を超えているであろう命を最後の最後まで使い切る、そう言っていたその人の言葉通りだ。
「…願わくば…愛しい『』…役目を終えた、その時は…どうか……に…いき…て……」
スミレ色だったその人の着物はもう血で真っ黒になっていた。
夜の森の中でいまわの際に掴まれた腕は、血が通わずに痺れてしまった。
腹に押し付けられた一振りの刀を握りしめて、絶命した母の手から振り払うように腕を抜く。
母の腕は落ちなかった。
もう片方の手から刀を引き抜いて、踵を返した。
壮絶な死を見せつけて逝った母の体は、その瞬間のまま硬直していて倒れることはなかった。
爛々と見開かれた目に追われるように、自分の背丈ほどもある刀を抱きしめて走った。
走って、走って、村の灯りが見えなくなるまで。
光を失った母の目に映らなくなるまで。
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