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「白石君ーーーーコホン、わたしのアパートに来なさい。学校から近いし、部屋も今空いてるから」
俺を見るや、脈絡もなく聖美先生はこんな提案をしてきた。
この人はいったい何をほざいてるんだ。俺は心の中で彼女を蔑んだ。タオルで額や目元の汗を拭う聖美先生。こんな汗だくになってバカじゃないのか。
きっと、葬儀を手伝ってくれた親戚連中のように、俺に入る両親の保険金が目当てなんだろう。優しい顔して近づいてきて俺が無知なのをいい事に全てを奪っていく。人間なんてしょせんはそんな奴らばかりなんだ。
「あなたにあげるお金なんて、ありませんから」
皮肉たっぷりに言い捨ててやった。
「ああ、敷金とか礼金はいらないから。白石君の準備さえ良ければ、いつでも入居できるよ」
「はあ?」
この人、天然か? 俺の話をどうしてそんな方向に解釈するんだ。
「一応、部屋見てから決めるよね? 後で都合のいい日教えてくれる? この番号にかけてくれればいいから」
俺の手に無理やり握らされたのは、彼女の名刺だった。肩書きと名前、携帯番号とメールアドレスの入ったシンプルなデザインのものだ。
「じゃあ、よろしくねぇ。また学校で会いましょう」
ヒマワリのような明るい微笑みを俺に向けると、聖美先生はジリジリとした炎天下のなか帰っていった。
もらった名刺をマジマジと眺めながら、俺はある噂を思い出した。聖美先生が学校近くのアパートの大家さんもしているというものだ。あの話しぶりからすると本当らしい。
教師って副業して良かったのか、なんて考えながら、俺はほんの少しだけ心が軽くなった気がしていた。3日ぶりに聞いた人の声がひどく心地良かった。
アパートに来なさい、か。つまりは、俺にこの家を出て一人暮らしをしろと、彼女は言っているのだ。
正直、住む所なんてどこでもいい。ただ、この家は借家だが1人でいるには広過ぎる。親戚連中も、各々が自分の所に来いなんて言ってたけど、転校するのは面倒だ。
俺にはなぜか、聖美先生の提案が最善な気がしてならなかった。
俺は台所で水をコップ3杯ほど飲み干すと、名刺の携帯番号に連絡を入れた。明日にでも部屋を見せてもらいたかった。
さっきまでは、何日こうしていれば死に至るのだろうなんて考えていた。しかし、今俺は少しだけワクワクしている。自分の事ながら不思議でしょうがなかった。
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