我が侭と料理教室

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 僕の机には数学の問題集が広げられていて、クラスのみんなが黒板の方を向いている。別に進学校というわけでもないが、とくに授業を邪魔する不貞な輩も居ない。みんな退屈そうな表情ながらも、しずかに授業を受けていた。  数学の教師は麗しき加古川女史。今日は三つ編みしていないのか、短く角刈りにされた頭が黒板に向かってなにやら書き込んでいる。肩もなんだかごつくなって男のようになっていた。  隣に目を移す。さっき僕を起こしてくれた女性徒の机にも教科書が広げられていた。開かれたページは古文、徒然草。  静かな教室。いつもとなにも変わりない。  太陽の黄色い光、窓側が全部窓ガラスになっているこの教室には、目に眩しすぎるくらいの明るい光。  なにも変わりはない。ごつくなった加古川女史と数学で徒然草を教えるようになったこと以外は、何も。 「皇太君、皇太君」  しかし、気を許すと涙が出てきそうだった。 「ここまで起こさなかった私も悪いかもしれないけどね」  加古川女史。あれほど美しい女性だったのに。少々気の荒いところはあるが、時々油断して浮かべる幼子のような笑顔は、僕を魅了してやまなかったのに。 「皇太君、皇太君」  黒板に向かって漢字を書きつねる後姿は、もうかつての細さ、麗しさはなかった。そう、たとえるならば古文の藤堂のような無骨さとごつさとおっさんく臭さと……。 「いま、古文の授業だから」 「わかってます。僕だって加古川女史のファンでした。それが古文の藤堂のような姿に変わってしまって、そう思いたい気持ちはよくわかるんです」 「ていうか、藤堂だから。あの人」 「ああ……麗しき加古川女史」 「……携帯、震えてるけど」  疲れたように肩を落とす女性徒に心から同情しながら、僕は言われたとおり鞄に目を落とした。 「ああ、ほんとですね」 「見つからないようにした方がいいよ」 「忠告、感謝です」  藤堂のようになった加古川女史は、さっきから黒板に延々と漢字を書き連ねている。どうやら教科書を写しているようで、もうしばらくは大丈夫だろう。
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