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「遅なりました。すみません」
オロオロとするお付きの松さんが、血の付着したシャツを見て「坊っちゃん!」と声をあげた。
「どうしたのですか!まさかお怪我でもっ」
「違います。松さん、稽古着お願いします」
早く稽古をしなければ。早く稽古に身を沈めないと、自分がおかしくなってしまう気がする。
シャツを脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。冷ために設定した水の温度が体に染み渡る。
早々にあがり、脱衣場に用意された稽古着に袖を通す。
さて。
脱衣場から左に折れて、奥にある十二畳の客間が僕の稽古場だ。ものの十秒で着く距離。
そのはずなのに。
僕の体は稽古に向かいたいと叫んでいるというのに。
稽古をしなければならないと思うのに。
精神がそれを嫌だと拒否をする。動けないように、稽古をさせないように、体を施錠する。
脱衣場の扉の取っ手に手をかけたまま動けない。動きたい。動きたくない。動いてほしい。動いてほしくない────。
どうにもならない押し問答の中で考える。
別に知り合いではない。全く知らないお婆さんだ。関わりのないお婆さんだ。
でも、あの「ありがとね」が、笑顔が離れなかった。偶々会っただけの僕なんかに遺言を残してしまう、あのお婆さんが頭から張り付いて取れない。
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