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早く逃げなければならない。死体からも酒上からも離れた、遠くに。逃げ切れなかったときの結末を考えると身の毛もよだつほど恐ろしく、義人はもつれる腕でブルゾンを脱ぎ捨て、走り去ろうとした。
「パパ・・・?」
数歩と行かないうちに細い声がして、義人は見えない手に掴まれたように立ち止まった。殺された男のそばに黒光りする車が留められていることに、更に開け放たれた運転席から見える助手席に、一人の男の子が蹲っていることにも気付き、彼は戦慄せざるをえなかった。
「ねえ、パパ・・・」
男の子がゆっくりと視線を死体から上げ、義人と目を合わせた。不思議なほど、はっきりとした目だ。
この子は全てを見ていたのだろうか。シートベルトの中で膝を抱えながら、唇をわなわなと震わせ、大きな瞳をぐっしょりと濡らしている。明らかに、父の身に起こったただならぬ事態に、そして義人の存在にも気付いているようだった。
見られるということが、自分にとって有利なのか不利なのか、義人には咄嗟に判断がつきかねた。酒上ならば僅かにでも危険性を感じ、口封じに殺しただろう。しかし、義人にはそのようなことはできない、決して。逃げようか、それは逆に犯人扱いされまいか、かといってここにいるのも危険ではないか・・・彼の頭はいよいよ真っ白になった。幼子の濡れた瞳に射すくめられながら、この日の恐怖と心痛にいよいよ打ちのめされ、もう何をするのも考えるのも嫌になるほどの疲れに襲われた。
奇しくも四方から、パトカーのサイレンが聞こえてきた。疲れ切って抜け殻のようになった脚はもう、動かない。
「・・・どうにでもなれよ。」
義人はその場に、ぐったりと膝をついた。サーチライトが縦横に視界を横切り、被害者の悲鳴に起き出してきたらしい、寂れた家の住人達が、寝間着姿で窓から顔を団子のように連ねて出している姿が、ぼんやりと浮かび上がった。
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