エッグスカラー

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楕円形の卵の腹を、器のヘリにぶつける。ひびの入ったところに両手の親指をもぐりこませるようにして開いたら、つややかな卵白に覆われた卵黄が世界へと飛び出してきて、底の深い器へと滑り込んだ。殻に癒着していたはずの白い緒を、箸で丁寧に取り除き、器を傾けて卵を掻き混ぜ出す。 子供のころにはずいぶん残酷なことをしているなと、思ったものだ。母さんに「無精卵」と言う言葉を聞かされても、どうも納得のいかないものだった。いまとなっては、鶏が年に何百個という大量の卵を産むことを知っている。必要のない優しさはどこかへ忘れてきたというわけだ。 油を布いて熱したフライパンの上に溶いた卵を流し込む。ふつふつと気泡を出しながら、鮮やかに黄色く焼きあがっていく。私の家に代々つたわる卵焼きは、砂糖で甘く味付けしたものだ。手早くかき混ぜて、巻きあげて行かないと、気を抜いた端から焦げていってしまう。巻き上げたら、完全に火の通らないうちに皿に上げてしまう。完成だ。 鶏は雄でも卵を産む。正確に言えば、産むことができる。それは本当にわずかな確率ではあるが、まったくできないというわけではな い。と、昔に聞いた。もう誰だったか、いつだったかさえも覚えていない。ただ、どこかの駅の高架下だった記憶が、ふんわりと残っているだけだ。言われたときは信じていたんだろうが、高校に上がって、こともなげに「それ」を言ったときにはものすごい赤っ恥をかいた。以来、思い出すたびに背筋を虫が這ったような、どうももやっとした感覚を毎度のごとく味わっている。 箸を軽く水洗いして、背の低いテーブルの上に並べる。小さめのお椀にご飯を少なく盛って、卵焼きと一緒に並べた。冷蔵庫の中に食べかけの奈良漬があったはずだ。味が濃ゆすぎて、一人では食べきれないかもしれないので、食べられる時に少しでも食べておこう。 駅から数分、学校の多い地域、中間富裕層の子供をターゲットにするのが僕の仕事だ。塾の講師というやつ。私の今日の担当は小中のクラス授業と高校生の個別授業が一人。卵の殻に守られた饒舌で寡黙な高校生がその彼だった。毎回言っている「こんにちは」は多分彼の耳には届いていない。夕焼けに照らされる教室で待つ彼を心なしか待ちどおしく思いながら、急ぎ足で部屋を出た。
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