零時の誘蛾灯

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この日から、僕は泣かなくなった。 本格的に他人の痛みを理解できなくなったのは、このころからだろうか。 僕のような冷めきった人間に、医師は無理かもしれない。 それでもせめて、父を支えられるような人間になりたい。 僕はその一心で必死に勉強し、地元有数の進学校へ進んだ。  そこで僕は、美藤(ミフジ)ゆかりと出逢った。  美藤ゆかりは紫色の女だ。 僕が彼女に紫という色を当てはめるのは、初めて話したときの印象が強いからかもしれない。  美藤は学校では自己主張の強いタイプでないが、橘という名のクラスでも発言力の強い女子に取り入っているようで、入学当初からずっと女子でできた壁に囲まれて居た。 そのため、男子がうかつに彼女へ話しかけることはできず、僕と美藤が初めて会話を交わしたのも高校一年の冬のことだった。  初雪が降っていた、十二月の放課後。 僕は懐中時計のフタを手の中でパチンパチンと鳴らしながら、雪に反射した破れそうな光で満ちている学校の廊下を歩いていた。 懐中時計のフタを鳴らしているとき、僕は大抵酷く落ち込んでいる。 このときは期末試験の学年順位が七位だったことで気分が憂鬱になっていた。 学年順位五位以内に入らなければ、父は僕と口さえ利いてくれなくなる。 会話のない冷めきったリビングを想像し、僕は真っ暗な気持ちでうつむき加減に歩いていた。 このときしっかり前を向いて歩いていれば、何かが変わっていたかもしれない。  自分の足元を見つめていた僕の視界に、紫と白の糸で編まれたミサンガが滑り込んで来た。 顔をあげて前を見ると、紫のリボンで黒髪をハーフアップにまとめた女子が、教室のストーブ用の灯油を入れるポリタンクを持って歩いている。 僕はミサンガを拾ってその背中に声をかけた。 「これ、落とした?」 真冬のキンと張り詰めた空気の中、まるで時間の進み方が遅くなったかのように、その女子はゆったりと振り返った。 見る人に涼しげな印象を与える凛とした顔立ち。 野暮ったいブレザーは逆に体の細さを強調するが、女性らしい丸みまでは隠しきれていない。 造形は完璧で表情だけが欠落した、人形のような虚ろな儚さを持つ少女。 美藤ゆかりだった。 美藤は、ぼんやりと焦点の合っていない目をこちらへ向けると、落ち着いたなめらかな声で、 「あぁ、ありがとう……」 と言って、僕に手を差し出した。
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