しのさん

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私は知らなかった。 目上の人からいただいたお茶を「しのさん」に、ただ出しただけだった。 しのさんが、はちみつを注ぐと、焙じたままの色のお茶が、赤くなり、紫に変わる。 花のくずが踊る。 細かい茶のかすが舞う。 しのさんの両手にもたれたガラスカップの中には、一寸早く、紫の夕闇が訪れていた。 底でゆらめくはちみつは蜃気楼のよう。 細い手首のブレスレットは月と鎖。 白い指には毛穴が見当たらないし、爪もまるで透明だった。 その口に含んだカップのふちが、お気に入りのほくろとピッタリ合ったので、私は、少し口を開けたまま、あっ…と空気を吐き出した。 しのさんは、私の部屋に仕事をしにきた。 それで、私はたまたまあった名も知らぬハーブティーを振る舞う。 はちみつはありますか、と、しのさんが言う。 そのあと目の前で魔法がくりひろげられる。 その偶然が織り成す魔法を、必然です、と照れずに言えたらどんなにいいだろう。 「先生」 しのさんは私より少しだけ年上の女性だから、そう呼ばれるとむずがゆい。担当が変わる挨拶のときからむずがゆかった。 「先生は」 この窓から景色を見ながら、作品をかいてらっしゃるんですね。 しのさんがため息混じりに見た景色は、ごくありふれたものだ。 黄色く輝く太い川、大きな橋に小さい車。 遠くには山の稜線があるはずだけれど、今はもやもやしている。 その他は緑と人々だった。 それらが、いっせいに黄昏れはじめている。 「先生」 窓辺でしのさんが言う。 「ときどき、おかあさんのお腹の中に戻りたくなることって、ありませんか?」 私はうなずく。 「いいですよ。よろしければ、私のお腹に」 「先生のお腹に?」 私は、しのさんを壁際に誘う。 網のゆりかごに、しのさんはくるまった。ちゃんと右耳を下にして目を閉じる。 「懐かしいです」 先に口を開いたのは私だった。 「何がですか?」 しのさんが聞いてくる。 「お腹に、赤ちゃんがいる感じ」 「まさか…」 まさか。私が母親だなんて、事件だ。 でも不思議な感覚。 「前世ですか?」 かもしれない。例えば、私には透き通るように美しい娘がいた。 ハンモックを引いて揺らしてあげると、私の骨盤もぎしぎし軋む。 窓の外では、はちみつをたらした空とガラスの底がゆらゆらしていた。 おわり
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