二百七十九 我も悪なり。彼も悪なり。

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 中央に立つ人物に見覚えがあった。モルフィネスが育てた王女軍の弓兵中特に選び抜かれた狙撃弓兵隊、その中でも随一と称されている弓の名手キーショウであった。  ハンベエは素速く立ち上がった。もう驚きもしなかった。疲れ切っているはずなのに、身体が軽く感じられていた。  疑いの余地は無い。モルフィネスがハンベエを除こうと策略を巡らせていたのである。貴族一統を嗾してハンベエと争わせただけでは飽き足らず、トドメの短剣とばかりに狙撃弓兵連まで送り込んであくまでハンベエを抹殺しようと企んだのだ。彼我の距離は三十数歩と言ったところであろうか。  空気が異様に澄み切って感じられる。不思議と心が凪いでいた。恐怖も憤りも湧いて来ない。 (此処で倒れるわけには行かない。)  ハンベエの心を占めているのはただその一点のみであった。  ゆらりと、風に押されるようにハンベエはモルフィネス配下の弓兵達に向けて漂うように歩み始めた。  ピュン、空気を切り裂く気配と共に、一斉射撃の矢が放たれた。瞬間、ハンベエの身体は滑るように六歩地を駆けてキーショウとの距離を縮めていた。矢は又もやハンベエの残像を貫いて後方に跳び去って行く。キーショウが次の矢をつがえてハンベエ目掛けて放つ、駆けながらハンベエがそれを剣で弾いた。その後から、他の者の矢がハンベエの影を射抜いて抜けて行く。ハンベエとキーショウの間合いは十五歩を切った。  キーショウは四の矢をつがえてハンベエの正面から必中の狙いを定めて、ハンベエの眼を射抜くように見詰めていた。  ハンベエとキーショウの間合いが一瞬のうちに縮んで行く、十歩、七歩、五歩。  ブツンッ。  将にキーショウが必中の一矢を放たんと今一層の力を右の指に込めたその時、その弓弦が切れた。  その拍子に、キーショウの右手の指から矢が滑り落ちて、カランと乾いた音を地に響かせていた。  咄嗟に腰の剣の柄に手を移そうとするキーショウの前で、ハンベエが剣を右手大上段に構えたまま立ち止まっていた。  二人の間合いはもう三歩も無い。ハンベエがその気なら、一足跳びでキーショウを両断するであろう。  皆が動きを止めていた。キーショウ以外の弓兵も矢をつがえて放つ構えを取って居るのであるが、気を呑まれたのか、或いは間が合わないのか、矢を放つのを忘れて固まっていた。 「ようキーショウ、どうやら俺の死ぬ日は今日じゃあないらしいぜ。」  とハンベエは平静な声で語り掛けた。
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