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段々と会話がわからなくなってきた丁度その頃、
先に別れを告げたのは悠月だった。
「やばい、もうこんな時間か。家に寄り道するって言うの忘れてたよ。」
丈は内心ほっとしていた。
だが残念でもあった。
横の椅子に掛けてあったコートを羽織ると、後姿からは悠月はとてもじゃないが男子生徒には見えない。
すぐにでも会えるというのに、尾を引かれる。
初めてかもしれないほど話の会う人間と別れるのが寂しかった。
今から丈が帰る先に待つのは暗くてひんやりした部屋なのだ。
「…おい、沙田、」
「悠月でいいよ?」
「明日も、…いや、明日、俺の家来るか?学校の近くだし、」
そう言いながら、丈は何気なく手を悠月の細い肩に置いていた。
悠月は咄嗟に身構え、
顔の血の気が一気に引いた。
何が起こったのか分からず丈は手の位置も宙に浮いたまま、佇んでいた。
「…え?」
「え、あ、いや、…ごめんごめん、びっくりした。」
また悠月は笑顔を作る。
どこか必死に見え、額には汗も浮かんでいる。
「明日な、親に相談してみる。ありがとな。」
帰宅した丈に、ニャアと声を上げながら黒猫がのそのそ歩み寄る。
外気で冷やされた身体にまとわりついては喉を鳴らした。
靴を脱ぎ、コートを雑に脱ぎ捨てると、音源や資料、書き溜めた様々な曲たちを引き出した。
明日、悠月が家に来るかもしれない、純粋に興奮して掌が震えていた。
何かが起こるかもしれない、
何かというのは自分の未来を大きく変える可能性を秘めている。
ただ歌を唄うことしかできないと悠月は言ったが、恐らくそのたった一つのチカラの重要性には気づいてはいない。
そして勿論、悠月の外見もまた丈を興奮させている一つの要因であったが、
それは決して恋愛感情的なものではなく、単に芸術作品を愛でる感覚だった。
美しいものを眺めていて嫌な気はしない。
一つ疑問として残っているのは、互いが触れ合ったときに見せた一瞬の変化だ。
見落としてしまうほど微かな、しかし明らかな動揺。
その表情を見てからというもの、悠月の笑顔全てまでが疑わしく思えるのだ。これは元々から丈の持つ人間不信の傾向ゆえかもしれない。
[いい曲だな]
伏し目がちで金色の睫毛が影を作る、普段なら社交辞令程度に捉える言葉が、素直に投げかけられた気がした。
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