始まりの唄が、聴こえる。

3/20
前へ
/22ページ
次へ
「……また来るよ、母さん」 ちっとも目を覚まさない母にそう声を掛けると、掌の中に硝子で出来た青いおはじきを握らせて、僕は先ほど部屋に入ってきたのと同じドアを振り返って、そのまま廊下へと歩を進めた。 母の掌で覆い隠される寸前まで僕の網膜を焼いていた、とろりとしたおはじきの艶っぽさが、脳髄に突き刺さる。 きゅっ、きゅっ、と、リノリウムの床と僕のスニーカーの靴底が擦れ合って、まるで離れたくないとでも言うように泣き喚く。 でももう時間だ。行かなくてはならない。 西に傾いた日差しが、開放的に開け放された廊下の窓から、僕の肌を温める。 それすらも無視して、規則的な歩行で、一歩、一歩、前へ。 背後から女の声で誰かが僕を呼ぶような気配がしたけれど、聞こえない振りをして、そのまま玄関ロビーへ。 硝子張りの入り口から中庭へと踏み出した僕は、いつの間にか自分の頬が温かく濡れていることに、そこで初めて、気付いた。
/22ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加