プロローグ

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 満月が星明かりを霞(かす)ませている、空気も凍(こご)える冬の物静かな夜。雲も見当たらない夜空の下、枯れ木が目立つ広葉樹の森を一人の若い男が、木々の間を縫(ぬ)う様に疾走していた。  男は流行(はや)りのコートが木々の枝に引っかき回されることも構わずに、ただひたすらに足を動かしている。時折、背後に目を向けて、状況を確認する。そこには何もない、開拓された道から大きく外れた、森の暗がりが奥へと伸びているだけだ。  背後に誰も居ないことを何度も確かめた男は、近くに生えているひと際太く大きな木の幹(みき)の陰(かげ)へと飛び込んだ。白くなる吐いた息すらも隠すように、コートの襟(えり)を振るえる両手で引っ張り上げる。 「……な、なんで、こんな……!」  男は恐怖と冷気で震える声で、誰に問いかけるわけでもない疑問を呟いた。頭の中で反芻(はんすう)しているその疑問は、男が現状に至っている要因に心当たりがないことを示していた。  その空気に溶けていくはずだった問いに、回答者が現れる。 「それは、お前が死んで喜ぶ奴が居るからさ」  つい先ほどに聞いたことのある、落ち着き払った男性の声に、木の陰で息を潜めていた男は戦慄した。ど、と冷や汗が全身から噴き出し、恐怖から定まらない視線が、いつの間にかに正面に立っていた暗闇の男へとゆっくりと注がれる。  革のブーツと、それに似合わない漆黒のスーツ。深紅のワイシャツの真っ黒なネクタイ。肩に掛けている金の刺繍(ししゅう)が施された分厚い夜色のコート。全身と同じ黒の、鍔(つば)の広いハットが血のように赤い瞳を、より一層深い闇に隠している。  二メートルに近い背丈のその男は、焦げ臭い匂いと煙を撒き散らす手のひら程の長さの葉巻を咥(くわ)え、木の陰で震えていた若い男を見下ろしていた。 「あ……が……っ」  目の前に佇(たたず)む絶望に、男はついに声が出なくなる。若い男は、この黒い絶望の使者から逃げていた。突如として現れた暗殺者である目の前の男から、なに振り構わずに逃走していた。だが、それは報われることはなかった。ついに追い付かれた。
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