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「おはよう。」
初めて会った昨日と何一つ変わらない爽やかさと携えて、須藤さんはあたしを迎えに来た。
あたしの手には、昨日の名残。
「鍵、頂戴?」
忘れていったとかそういう確認をすることもなく、須藤さんはあたしがそれを持っていることを分かっていた。
昨日、ここで見たありきたりな風景は、朝の明るさで姿をハッキリさせていて。
ここで、あたしは何分間も須藤さんと話し込んで。
須藤さんの肩越しに見たこの風景と夜空が、ロマンチックなものになっていたのに。
いま見ている同じものは、これっぽっちもそんないいものではなくて。
昨日の出来事全てから、目を背けたくなっていく。
須藤さんの右側は、昨日よりは馴染む。
この空間に居場所を求めるつもりはないけど、2人の距離を自然と保ってくれるから、まだ少しだけあたしの逃げ場がある感じがして。
「よく眠れましたか?」
眼鏡を掛けた仕事用の須藤さんは、口調までがソフトだ。
ジェントルで、このままでいてくれたら素敵な男性(ひと)で終わっていたのに。
色んなことがあっても、素敵なのは変わらないけれど、キャラクターを見事に使い分けているのが悔しくて。
「えぇ、とても。」
……よく眠れませんでした。
時間が経てば経つほど、後悔が強くなって。
横になって眠ろうとしたら、枕に付いた須藤さんの香水の香りが残っていて。
悔しいけど、涙が出た。
どうして好きになってしまったんだろう。
どうして身体を許したんだろう。
今日からどんな関係でもいいって腹を括ったのに、甘かった。
「沢井さん、女性は素直が1番です。」
「どういう意味ですか?」
昨日と同じ、会社の裏手に停められた車。
サイドブレーキを引いた須藤さんが、シートベルトを外した。
「……千紗、キスしようか。」
「しません。」
素直が1番だと言うなら、すぐに実行してみせる。
今は、そんな気分じゃない。
問題なく会議を終わらせて、少しでも早く東京に戻りたい。
須藤さんから、離れたい。
そうじゃなきゃ……あたしの気持ちは本当に、好きと嫌いの壁を越えてしまうから。
距離を詰めながら、眼鏡を外す須藤さんはヘッドレストにあたしを追い込む。
「……ヤダ。」
って呟いた須藤さんが、昨日待ち合わせた時と同じ笑顔で、あたしの唇を奪っていった。
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