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キッ、と耳を刺す音でブレーキがかかる。 肩で息をするおれは、スタンドを立てる余裕もなく手を離す。 閑静な昼間の住宅街に、自転車が容赦ない音を立てて倒れた。 見上げるのは、自分の家よりも遥かに大きな家。 門の格子は、中途半端に開け放たれたまま。 彼女の父親がどんな様子でここから駆け出したのかが、わかる気がした。 鉄製の格子をゆっくりと押す手は、上がる息のせいか震える。 物騒だとは思ったが、あの親父さんの様子から、玄関の鍵がかかっていなかったのには納得する。 静まり返る家は、忘れるはずのない彼女の匂いを思わせる空気が漂っていた。 あの甘さを含んだ匂いの構成の一部は、この家で染み付いたものだ。 わずかなものにだって心に浸透してくる匂いに、鼓動が逸った。 お邪魔しますとは言わずに、一部屋分はあるであろう玄関で靴を脱いだ。 ここに足を踏み入れたのはどのくらいぶりだろう。 物音はしないのに、彼女の気配を感じる。 それはただの一方的な希望なのかもしれない。 玄関正面にある階段を見上げ、吹き抜けたその最奥に目を凝らした。
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