第零章

3/7
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ
 早朝、下人は目覚めた。主人に仕えていた時から起きる時間が変わらないことに、下人は微苦笑する。けれども、それは一瞬のこと。立ち上がって、着物を整え、下人は宛もなく歩き始めた。  (何処に行こうか。ここまま南下するのも、良いかもしれぬな)ほんの数日前の日常から解き放たれ、下人は頬を緩める。心身が解放感で満ち足りていた。何でも出来るような気がした。  ふと、あの老婆はどうしただろうか、という疑問が脳裏に浮かんだ。生きるために仕方なくしたことは悪とは言わぬ、と言ったあの老婆は、今頃楼上の死骸から着物を剥ぎ取って、鬘(かつら)を作っているのだろうか。そんな情景が浮かび上がり、笑いが込み上げ、肌寒くなった。  一つ息を吸って、下人は顔を引き締めた。老婆から着物を剥ぎ取った場面が浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。(気を付けねば。おれもあの老婆のように二の舞になるかもしれぬ)老婆の着物を背負っていた風呂敷に包み、聖柄をぎゅっと握り締めた。  遠くからささやかに水音が聞こえた。川だ。途端に喉が渇いてきた。唾液を飲み下しても収まらない渇き。下人は進む方向を変え、歩く。  辺りに立ち上っていた霞が薄れていく。喉の渇きに我慢出来ず、時折木の葉につく朝露を飲む。それは微々たるもので潤っては渇いていった。  苛立つのを下人が自覚する頃に桂川(かつらがわ)に着いた。透明で清らかな水が流れている。川縁に近付き、四つん這いになって、下人はがばがばと水を飲んでいく。喉が潤うと、頭から川に突っ込んだ。川から頭を出し、頭を振って水気を落とす。すっきりとした顔がそこにあった。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!