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「酒は、あるか?」
何処か幼い声音と、ぶっきらぼうなアイリスの口調は相変わらず不釣り合いだった。店主は顎先に人差し指を当てながら、
「んー、お酒は夕方の六時から」
「アップルパイは?」
「あるよ」
「じゃあそれと、アイスコーヒー」
言った瞬間、ぐるぐると腹の虫が鳴いた。
「う……」
アイリスはまだ、昼食を摂っていなかった。店主はまたくすりと笑って、
「はいはい、ちょっと待っててね」
何処か大人びた佇まいで返事をする。アイリスはむっとした表情で、ぷいと顔を背けた。
店主が、足元へ擦り寄る先ほどの黒猫へ左手を伸ばすと、黒猫は素早く這い登って店主の肩に収まる。彼女は器用にもそのまま立ち上がり、冷蔵庫から取り出したパイ生地へ林檎の剥き身を包み始めた。
店内を見回すと、そこは何の変鉄もない喫茶店に見えた。白木の桟に、ブラウンの壁紙。天井にはアンティークな吊り下げ式の照明が柔らかな光を放ち、カウンターの隅にあるCDコンポからは落ち着いた曲調のジャズが静かな空気を揺らしている。特筆すべき点と言えば、店の至るところに猫が我が物顔で寝そべっている事と、壁や床の所々に虫が食ったような穴が空いている事くらいだろう。先客は、三人。テーブル席で見つめ会う冴えないカップル二人に、この暑い中長袖のパーカーを着込んだ眼帯の女が一人。
しばらくして、オーブンのベルが鋭い音を鳴らし、香ばしいパイ生地の匂いがアイリスの注意を惹き付けた。
「はい、おまちどおさま」
コトリと、テーブルに置かれたのは、美しく焦げ目のついたアップルパイ。しかも、
「でっかい、な……」
アイリスが目をぱちくりと瞬くのも当然で、それはホールサイズだった。
「ふふ、新顔さんへの、サービスだよ」
にっこりと微笑んだ店主が、氷の入ったグラスにコーヒーを注ぎ込み、これもカウンターへ置く。
「悪いな、店主」
「レイズ・スナイプ」
ナイフでパイを切り分けようとした、アイリスの手が止まる。見上げると、今度は店主、レイズ・スナイプの方が値踏みをするように、アイリスの瞳をじっと見つめていた。わざわざ名乗ったのは、喫茶店の客と店主以上の関係を築くための準備であろう。それは、つまり、
「お見通し、ってわけか」
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