第0章 管理人の洋館

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  アイリスが書類の一枚に目を止め、さっと、それを差し出した。どうやら住まう物件は、既に決めていたらしい。 「ふふ、ふ……。やはり、そちらですか。もう、手続きは済んでいますよ」 マダムの言葉に、再び驚くアイリス。 「随分と、用意が良いな」 「それはもう。私の夫は、何でも知っていますから……」 言ったマダムの口元が、歪な弧を描く。先ほどまでの上品な佇まいは何処へやら、まるで堕ちた悪魔の如き陰湿な狂喜が、マダムの身体から吹き出すようだった。アイリスは訝しみながらも、臆さない。 「……夫? 管理人は、未亡人だと聞いてるぞ?」 「何を、言っているのですか貴女。夫はずっと、そこにいますよ……、ほら、貴女の、後ろに……」 その時。 ぞわりと、アイリスの背筋が粟立った。背後に、得体の知れない気配が揺れ動いた。思わずコートを翻すも、その視線は虚空を捉えるのみ。アイリスの意識から逃れる様に、その気配は右へ現れては消え、左へ現れては消え、そして、 「ひゃうっ……っ!?」 ぱっと、コートのフードを引ぺがし、消えた。自分であげた奇声に赤面しつつ、慌ててマダムの方へ振り返る。 「ふ、ふふ……。最近、悪戯が過ぎますよ、あなた……」 恍惚と言葉を落とすマダムへ向けた、アイリスの表情は険しかった。アイリスの素顔を目に止めたマダムが、 「あら、あら。声と違わぬ、可愛らしいお顔。特に、その紅い瞳……」 ゆっくりと歩み寄り、黒いレースのミトンで、こめかみを撫でる。 「コリコリしてて、美味しそう……」 アイリスが思わず跳び退り、背負う長物へ手をかける。 「ふふ、ふ……。冗談、ですよ」 「……」 やがて……。 舘を後にし、黒い格子門へと続く長い庭道の途中で、アイリスは足を止めた。 ぱっと、背負う長物へ手を掛け後ろを振り向きざま、ついてきたとも憑いて来たとも言うべき妙な気配へ、布を巻いたままの先端部を突き付ける。 「クスリ、クスクス。わはははは……」 そこにいたのは、白い軍服を身に纏った青年だった。カクカクと上下に首を揺らし、薄気味悪い機械人形のように、感情の無い笑い声を鳴らし続ける。 「何なんだ、お前は……」 青年の笑いが、ピタリと止まった。セミロングの髪は、白と黒のアシンメトリー。目元にはピエロのような化粧を施しており、まるで幾つもの人間を継ぎ接ぎしたような顔かたちである。  
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