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「本当にありがとうございます。この後がどうなるにしても、先にこのグラスはお納めください」
「本当に良いのですか」
彼の戸惑いも至極当然の反応だろう。
実際に幾らの値がつくのかは私にも分らないが、高価な物には違いない。
通い詰め、譲渡を願い出た時の彼は言い値で良い、とさえ言っていたのだ。
それを今、金銭的な対価はなしに、私は譲ろうとしているのである。
「この奇跡の杯には謂れがあります」
理由を聞けば彼も納得するだろうか。
「謂れ、といいますと何か因縁めいた怪談でも」
「いいえ、そうではありません。このグラスは持ち主にただ一度だけ奇跡を起こしてくれるのです」
「奇跡、ですか」
「はい。持ち主に奇跡を起こすと、自然とその手を離れる、そう伝えられています」
「なるほど。その言い伝えを逆手に取って、手放すことで奇跡を起こそうというおつもりなんですね」
「まあ験担ぎ程度の意味合いですが」
「ならば、僕の身の上には奇跡など起こってほしくはありませんね。このグラスに関して僕は商売ではなく純粋に欲しいと思ったのです」
このタケオさんの言葉がどれだけ正直に綴られたものであるかなど確かめる術はなかったが、どのみち一度手を離れてしまえば、グラスの行く末について私がとやかく言える筋合いでもない。
だが、帰り際に彼が重ねて言った
「もしまたこのグラスに会いたくなったら、いつでもうちにおいでください。僕は何があってもこれだけは手放さずにいますので」
という言葉は信じても間違いがないように思えた。
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