序章 とある先公との堕落論

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 ――と、僕が思考した、水を打った様に静かな十秒間。  たったそれだけの貴重な沈黙を、先生はいとも簡単に打ち砕いた。 「――読め読め読め。何でも読め。駄作も古典も良しも悪しきも、そして、それらがいかに書かれているか、理解するのだ。丁度、親方に学ぶ見習い大工の如く。読め。吸するのだ。そして書け。名文ならば自分で分かるだろう。駄文なら窓から投げ捨てろ」  バイ、ウィリアム・フォークナー。  そう締めくくって、不吊先生は、また黙る。  何を急に……とか思ったが、考えれば、これも彼女の癖の一つだった。  “人の名言を口走る”。  どんな場所でも、どんな場面でも、見境無く。自分が喋らないと、誰かが喋らないと、沈黙が有る限り、静寂が有る限り、こうやって名言を言い続けるのだ。兎に角、名言を言う言う言う。それについての知識が尽きるまで。  普段は気をつけているらしいが、僕が見た所、僕以外の人と一緒にいる時は、口パクとしてその癖が出てしまっているようだった。  悪い癖と言うか、難病だな。ここまでいくと。 「……良書を読むには、悪書を読まぬことを条件とする。人生は短く、時と力とは限られているから。バイ、ショウペンハウエル――ふむ。なあ、芥」  先程、話を(僕が強制的に)終わらせた筈なのに、再び、先生は話しかけてきた。  ……静かに読書をする。と言う事を知らないのだろうな、この教師は。いや、静かにすると言う事自体、彼女は知らないし、知る由もない。  そのまま無視するのもアレなので、僕は本を読みながらも返事をした。 「……なんですか?」 「“全ての本を読んで良書悪書を判断する”か“本を読む前に良書悪書を取捨選択してから読む”か――お前だったら、どうする?」  知るか、そんなもん。  ――と言う解答は、勿論飲み込む。言ったら鳩尾にボディーブローか、弁慶の泣き所に回し蹴りが確実に来るのだ。まともに答える事にしよう。  不吊先生は何気にキックボクシング経験者だから、そこら辺、気をつけないといけない。僕自身、彼女のせいで過去に何回か死にかけた事あるし。
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