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まずは腹ごしらえをしようと、手帳をバッグにしまい、傘の代わりに手を頭上にかざして、道路の向こう側に渡ろうとした時。
ビ――――…!
鋭いクラクションの音と共に、地下駐車場から、黒い車が勢いよく道に出て来た。
「きゃ……っ!」
ひかれるほどではないが、それでも杏樹の体すれすれの所を、車が強引に通り抜けた。
バシャッと派手な音がして、水溜りが思い切り杏樹に跳ねる。
それだけでも酷い災難だが、不運がさらに重なった。
グッと誰かにバッグを引っ張られる感覚があり、杏樹の体がぐらりとバランスを崩す。
「え…?!」
そして、するりとバッグが腕から抜けた。
労働者風の若い男が、杏樹が持っていたバッグを引ったくったのである。
「え…っ ちょ…」
慌てて振り向く頃には、人ごみの中に男が逃げ込んでいた。
「あ、あの…!あの人が…!」
杏樹が一度大きな声を出したが、周囲にいるのは傘を差し、ほぼ真下を向いて歩いているビジネスマンだけだ。
ちらりと杏樹を見る者はいても、助けてくれそうな者はいない。
(どうしよう…!)
手提げのバッグの中には、杏樹のほぼ全財産と身分証明書、携帯電話が入っている。それがなければ、家を借りることは愚か、職を見付けることも、そもそも今日の食事にすら困る状態だ。
男を追い掛けようにも、洋服の詰まったトランクを置いて行くわけにも行かず、杏樹は半ば放心したまま、立ち尽くすしかなかった。
ジーンズの色が変わるほど、思い切り水を掛けられ、荷物を失い、都会のど真ん中で一人。
「嘘でしょ…」
土砂降りの雨の中だが、全身からポタポタと水を滴らせたまま、杏樹は目の前が絶望に暗くなるのを感じていた。
(とりあえず、警察に…)
いや、先に叔父や叔母に連絡を取るべきか。
そんなことを考えるも、余りの出来事に頭が付いてこない。
東京に出て来て、僅か10分足らずで、全財産を失った。
「へへ…っ」
気付くと、杏樹は怪しい笑い声をあげていた。
人間は本当に絶望すると、笑うのかも知れない。
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