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不意にそのモデルが、最後の反発を見せた。鏡台に置いてあったペットボトルを取り、キャップを開けると、飛鳥に勢いよく差し向けたのだ。
ばしゃりと水が掛かり、飛鳥の赤髪がべったりと額に張り付く。ピキ、とこめかみに青い筋が浮き上がり、怒りを湛えた飛鳥の鋭い視線が、水滴の落ちる前髪の隙間からモデルを睨んだ。
「…あーぁ」
深い溜息を吐いたのは、飛鳥とモデルの間に入った、宇佐美である。
「ここまでやったら、もうあんたも気が済んだだろう。どっちにしろ、今日のショーには出られない。分かったら、ここから出て行ってくれ」
宇佐美がモデルの手からペットボトルを奪い
「さぁ、行った行った」
と、モデルを控室から追い出す。
モデルは憎々しげに、ヒールの高い靴を履き直し、カツカツと硬質な音を立て、姿を消した。
飛鳥は、びしょ濡れになった赤髪を掻き上げて、黒縁眼鏡を外し、周囲を見回した。
事の顛末を伺っていた他のモデル達が、関わり合いになるまいとサッと目を逸らし、現場は元の喧騒に包まれる。
「ほら、あと一時間しかないのよ!メイクが終わったら、フィッティングを…!」
あちらこちらからデザイナーたちの檄が飛ぶ中
「…気が済んだか?」
宇佐美が、白髪交じりの短髪をぐしゃぐしゃと乱しながら、げんなりした様子で飛鳥に尋ねた。
まさかショーの開始直前に、飛鳥が自らモデルを追い出すとは思ってもみない。
狭い控室に他のブランドのモデルや、ヘアメイクアーティストがひしめき合っているが、飛鳥の周囲だけが、ぽっかりと空白になっている。
「…くそっ」
飛鳥がぎり、と歯軋りをしながら拳を握った。
服があっても、モデルがいなければ、舞台で新作を発表することが出来ないことは、他でもない飛鳥が一番よく分かっているはずだ。
「分かってて、やっちまうんだもんなぁ…」
宇佐美は呆れたように飛鳥を見、それからその背中を、大きな掌で軽く叩いた。
「まぁ、近くのモデル事務所に電話してみる。誰か見付かるかも知れん」
その頃には、既に宇佐美の右手に携帯電話が握られている。
ショー開始の二時間前、今からモデルが見付かる可能性は低いが、探さないよりはマシだ。
宇佐美は飛鳥を横目に見て
「もう問題は起こすなよ。大人しくしててくれ」
と告げると、スーツのジャケットを翻して控室から出て行った。
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