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聖児はもはや存在価値を失った猫缶を片手に持ったまま、呆然とそれを眺めた。
頭部を失った黒い毛並みのそれは、血溜りの上に墨で描かれた片仮名のコのようであった。
そう連想してしまうほど、その光景は現実離れしていた。
こめかみに血流の圧迫感、耳の奥にごうごうという血の流れる音。
夢遊病者のような足が階段を鳴らした。
パート勤めなのだろうか、作業着姿の中年女性が振り向く。
「あなた、このアパートの人よね?」
顔色は青ざめていたものの、その表情にあったのは嫌悪だった。
「はい」
聖児は小さく答えた。
「いやだわぁ~。こういうのって大家さんに電話しないといけないのかしら。このままになんて……ねぇ」
同意を求めるような言葉に、聖児は問題はそこではないだろうと内心で反論した。
だが、現実的な問題として、クロの亡骸を放置しておく事もできなかった。
「私、仕事に行かなくちゃいけないし、あなた、大家さんに電話しておいてくれる?」
作業着姿。恐らくスーパーのバックヤードででも働いているのだろう、外見を気にする素振りの無い女性はそう言い捨てると赤い旧型のスクーターで走り去ってしまった。
クロと共に残された聖児は長い足に擦り寄る小さなぬくもりを思い出して固い息を飲んだ。
しかし、と、力の抜けた手がトートバッグからスマートフォンを取り出していた。
実務的な事を考える事により、現実に立ち返ろうという意識が働いているのかも知れなかった。
中年女性は大家と言っていたが、この場合適切なのは警察だろう。
そう考えて110を押そうとした聖児は一旦手を止めた。
人が死んでいたのであれば110だが、幾ら近しい存在とはいえ死んだのは猫である。
普通、野良猫の駆除などを頼むのは保健所だ。
聖児は二度手間になるよりはと、最寄の保健所を検索してコールした。
時間的に早すぎはしないかと思ったが、焼けた男の声が応じた。
『はい、崎島区保健所です』
出勤した所を直撃してしまったのだろう。声には不快感がにじみ出ていた。
「あの、猫が……」
猫が首を切られている。
そう言いかけて聖児はその表現は適切ではないと言葉を切り替えた。
「猫が死んでいるんです。そちらで処理をお願いできますか?」
意外に冷静な声が出た。その事に聖児はもう自分とクロは同じ地平の上に生きていないのだと実感した。
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