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壁の向こう、車が何度も行き交う音が遠くに聞こえる。
聞き慣れたその夜の静けさを割るのは、後ろで眠っている婚約者の大きないびきだった。
卓上ライトの控えめな明かりが、真っ白のままのレターセットを浮かび上がらせている。
まるで、ほらどうした時間がないぞ、とでも言われているようで、あかねは音のない溜息をついた。
明日は結婚式だ。
もう何ヶ月も前から準備を進めていたというのに、結局前日も深夜まで確認作業が続いた。
疲れたように眠る婚約者を一瞥して、あかねが再び机へと向き直った。
---お父さん、お母さんへ。
そう書き出しにペンを走らせて、また指が止まる。
目の前にある下書きの紙を引き寄せて、最初の文字に目を走らせた。
---24年間、ここまで育ててくれてありがとうございます。
インターネットで調べた当たり障りない言葉が並んでいる。
人の人生なんてそれぞれで、ピンと来るような例文なんてなかった。
出だしだけを拝借したが、そのあとは下書きを書き上げるだけで2週間はかかったものだった。
「ここまで、…そだ…てて…」
小さな声で確認しながら、なるべく丁寧な字で書いた。
幼い頃通っていた習字の賜物だと、少し自画自賛する。
そういえば、ピアノも習わせてくれたっけ。
そう思うに至って、またペンが止まった。
『あかねは指が長いから、ピアノに向いてるかもしれないね』
母がそう言って笑ったのを思い出す。
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