前夜

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「うちは狭いからピアノは買ってやれないけど、キーボードでも練習はできるからね」 ピアノ教室で音譜の読み方や鍵盤の位置を教えてもらう頃、両親と3人で楽器店に訪れた。 小学校に入学したばかりのあかねは、同級生の通うピアノ教室に通いはじめている。 値段と実物とを見ながら話し合う両親を見つめながら、キーボードという楽器がわが家に来ることをただ楽しみにしていた。 あかねは毎日そのキーボードを弾いた。 教科書となる楽譜本を少しずつ進めていくのが楽しかった。 「将来はピアニストになりたい!」 幼いあかねが夢に思いを馳せるも、それは長くは続かなかった。 両親の都合で引越しが決まり、同じ区内とはいえ教室に通い続けるには、転居先は子供の足ではあまりに遠かった。 近くに別の教室もなく、いつしかキーボードに触らなくなった。 小学校の授業でのピアノの技術も、そのうち他の未経験の子供たちと並んでしまうようになり、あかねはピアノを好きではなくなっていたのだった。 20年近く経ってもそれは変わらず、弾けるのは当時最後に習った簡単な楽譜とネコふんじゃっただけ。 薄暗い明かりの中で自分の指を見る。 何度か人から細くて長いと羨まれるだけになった指が、水性のペンを握っていた。
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