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「こりゃ暫くは…だめだな。」
また、独り言を言ってしまったか…。
妻の初江に先立たれてからというもの、一日中、誰とも話さない日々が続いている。
それと同時に独り言が、また増えたようだ。
足元に寄せては返す波は、赤黒く濁り、汚れ、そして臭った。
赤潮が運んでくる臭いだ。
鼻腔から入る臭いが…妙な郷愁を蘇らせ、胸の奥へと伝わってきた。
そうだ…漁師に憧れた小僧っ子の時に嗅いだ…あの臭いだ。
鬼より怖かった船頭から教わったのは、赤潮に覆われた海へ船を出すことは無意味だと…。
出たところで、油と仕掛けの無駄になるばかりだぞと。
赤潮は海を…魚を駄目にすると…何度も繰り返し、低い小さな声で俺に向かって繰り返していたっけな…。
「俺に文句垂れても何も変わりませんって」と言ってしまい、思い切り、頭をぶん殴られた。
もう、六十年も昔の話だ。
いつも海が荒れた時、怨めしげに沖を眺める俺に、何かを言いかけ…その口元まで出掛けたものを飲み込む。
急に、初江のあの表情を思い出し…、また胸の辺りが痛んだ。
あれを…俺は幸せに出来たのだろうか。
いや、そんな事を考える俺は、とうとう頭がおかしくなってしまったのか。
あれは…初江は…幸せなんて感じたことすらなかっただろう。
沖から、潮を重く含んだ風が吹いてきた。
これは、数日間は荒れた天候になる。
手持ちの金を素早く頭ん中で勘定して、更に気持ちは暗くなった。
普段からない食欲を今は全く感じない。
今日の夕飯はいらないと、息子の…嫁の美咲に言わなくてはいけない。
一度、家へと戻ろうと立ち上がろうとした時に、国道を大きな声で騒ぎながら歩く数人の小学生の姿が目に入った。
孫の正也がいるかもしれない。
慌てて、立ち上がったら足が縺れて尻餅をついてしまった。
…もう歳には勝てない年齢になってしまった。
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