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家の前で立ち止まり、尻を両手で叩いた。
嫁の美咲は異常に神経質だった。
尻に泥でも付いていたら、怒鳴り散らしてくるに違いない。
あんなだから、俺の息子も出て行ったんだろう。
あの前夜も派手な怒鳴り声が二階から聞こえていた。
初江はいつも心配そうに天井を見上げていた。
階段を降りてくる小さな足音がしてから、襖を遠慮がちに開け、小さな顔が覗いた。
『おぉ正也、こっちに来とけ。』
涙目の正也は、確か、あの夜はそのまま初江と寝たはずだ。
だから、正也が父親を見たのも、あの夜が最後になるんだな。
息子は、翌日、職場から帰ってはこなかった。
そして、嫁は一週間後に町の警察署に捜索願いとかいうのを出したと眉尻を吊り上げて言っていた。
『きっと女がいたに違いない。小さな子供がいるのに。責任も果たさずに家出するなんて…。でも、私は出て行きませんよ。正也をここで育てます。出て行きませんからね。ここで育てますからね。』
初江は頭を深く下げ、嫁に謝っていた。
『本当にとんでもない事をした。正也が可哀想だ。本当に…どうしたらいいんだか…』
正也は、窓枠にしがみつくようにして、家の前の道を見ていた。
父親が帰って来るのを信じていたのかもしれない。
その窓を見上げてから、そろりと玄関ドアを開けた。
築三十年を越える家は、いくら静かにと思っていても、必ず嫌な音を伴い、俺が帰宅したことを美咲へと知らせてしまう。
『おじいちゃん、いったいこんな時間まで何やってたんですか?船はあるのに姿が見えないから、海に流されたかと心配するじゃないですか。全く…』
自分の部屋の和室の襖を閉めるまで、煩い声は続いていた。
俺は、初江の写真がある仏壇の前で胡座を組んだ。
幸薄そうな笑みを浮かべた初江の視線が俺の目を見つめる…その位置が…胡座を組む定位置になっている。
悲しい習慣だった。
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